栄華を誇った藤原道隆は、自分の息子である藤原伊周の昇進を強引に行っていたことでも有名です。
しかしながら、藤原伊周は父の期待に沿うことができませんでした。
なぜ藤原伊周は、中関白家の没落の原因となってしまったのでしょうか?
今回は、藤原伊周の生涯とエピソードをご紹介します。
藤原伊周の生涯
藤原伊周は、藤原道隆と高階貴子の嫡男として生まれます。
12歳で元服し従五位下を叙爵した後、一条天皇の即位式の日に昇殿を許され、武官を務めながら急速に昇進していきます。
藤原道隆が摂政になり、妹の藤原定子が中宮になると、摂関家の嫡男となるためさらに地位が上昇します。
992年には、正三位、権大納言に昇進しました。
さらに昇進の勢いは止まらず、994年に藤原道隆の強引な引き立てにより右大臣に昇進、翌年には自身の後任として藤原伊周を推しています。
しかし、このような強引な引き立ては周囲の不満を募らせ、一条天皇の不興を買う事態になりました。
藤原道隆の薨去後は、藤原道長との権力争いが起こります。
ところで、藤原道長が関白に就任したのは、藤原伊周よりもふさわしいと判断されたためでした。
ですが、藤原道長の随身殺害事件や外祖父の高階成忠が藤原道長に呪詛している噂が流れ、一族の評判が悪くなってしまいます。
996年に長徳の変が起こり大宰権帥に左遷され大宰府へ向かいましたが、翌年に大赦が発せられたことにより帰洛します。
帰洛後の1005年には昇殿が許されるようになりますが、またも中関白家にトラブルが相次いで起こります。
1007年に藤原伊周と藤原隆家による藤原道長暗殺の噂が浮上し、1009年には中宮と皇子に対する呪詛事件が発生したのです。
呪詛事件では叔母の高階光子が入獄する結果となり、一時的に藤原伊周の朝廷への参内が止まる事態となりました。
政争に敗れてから暗殺疑惑や呪詛など、中関白家の悪評が目に付くようになります。
そんな藤原伊周は、1010年に37歳の若さで失意のうちに亡くなります。
一族の栄枯盛衰を目の当たりにした藤原伊周は、父の思いを継げず、残念に思っていたことでしょう。
藤原伊周のエピソード
中関白家の状況が大きく変わったのは、藤原伊周が藤原隆家と共に花山法皇を待ち伏せし、従者の放った矢が花山法皇の袖を射抜いた事件が起こった時です。
これには、藤原伊周の思い人の元へ花山法皇が通っているという誤解があり、事実確認をしないまま行動してしまったのです。
法皇に対し矢を射ったことは政治的問題に発展しただけでなく、藤原道長が権力を握るのに利用され、長徳の変に至ったとされています。
藤原伊周と藤原隆家、他の中関白家の者も処断されたことで、中宮だった藤原定子が落飾する原因にもなりました。
行動に移す前にきちんと誤解を解いていれば、没落を招く事態にならなかったのかもしれません。
没落のきっかけを作った藤原伊周ですが、『枕草子』では容姿端麗だったと記載があり、漢詩や和歌にも精通していました。
特に漢学に関しての才能は公認されており、漢文の書物の講義を一条天皇にしていたとされています。
天皇に講義するくらいですから、才能に恵まれていた人物だったのです。
しかしながら、そんな藤原伊周が藤原道長に敵わないことが分かるエピソードがあります。
それは、『大鏡』に記載されている、2人が弓を競ったエピソードになります。
藤原伊周が弓を射っていたところに藤原道長が現れ、競ったところ藤原道長が勝ってしまいます。
この時の藤原道長は、藤原伊周よりも官位が低く、そのような相手に負けたことが藤原道隆や従者は悔しく思ったのでしょう。
延長戦を申し出て、再び弓を射ることになったのです。
藤原道長はある発言をして弓を射ったところ、見事的の真ん中に命中します。
その発言とは、「自分の家系から天皇、皇后が輩出するなら、この矢は命中する」というものでした。
そして発言通りになったのですから、周囲が驚いたのは無理もありません。
同時に、藤原伊周には的の真ん中に命中させないといけないというプレッシャーとなりました。
その影響もあってなのか、藤原伊周の手は震えてしまい、矢は的に当たりませんでした。
さらに藤原道長は、「自分が関白、摂政になるなら、矢は命中する」と言ったところ、またもや的の真ん中に命中してしまいます。
藤原伊周は、この状況に焦ってしまったに違いありません。
このまま矢を射ってしまっていたら、どうなっていたでしょう。
再度矢を射る前に、藤原道隆が藤原伊周を制し矢を射させなかったため、勝負はここで終わりになってしまいます。
藤原道隆が制したことで、場も静まり返ってしまったそうです。
決して才能がない訳でなかったのですが、藤原伊周にとって藤原道長は分が悪い相手だったのでしょう。
まとめ
今回は、藤原伊周の生涯とエピソードをご紹介しました。
藤原道隆の嫡男として生まれ、容姿端麗で一条天皇に講義をしていたほど優秀な才能を持っていました。
しかし、藤原道長との権力争いに敗れ、自分の犯した失態から一族の没落を招いてしまいます。
弓のエピソードにもあるように、もし藤原伊周に度胸があったとしたら、藤原道長と良い勝負になり、権力争いの結果も違っていたことでしょう。