豊臣秀吉の妹である旭は、兄の天下統一の夢のために犠牲を払った人物です。
なぜなら徳川家康との関係を強化するため、嫁ぐことになったからです。
そして旭は、徳川家康に嫁ぐ前に別の男性と結婚していたため、離縁せざるを得ませんでした。
今回は、豊臣秀吉の影響を受けた旭の生涯とエピソードをご紹介します。
旭の生涯
旭は、竹阿弥と仲の娘として生まれます。
その後、尾張国の農民のもとへ嫁ぎました。
豊臣秀吉の出世と共に夫も取り立てられていき、「佐治日向守」と名乗るようになります。
ここまで夫と穏やかに生活していた旭ですが、豊臣秀吉の出世は喜ばしいことばかりではありませんでした。
小牧・長久手の戦いの和睦の後、豊臣秀吉は徳川家康との主従関係を結びたいと考えていました。
この頃豊臣秀吉は、徳川家康の第2子結城秀康を養子にしていたのですが、より強固な関係を築くため、妹婿にしようと考えたのです。
しかしながら、旭はすでに結婚していました。
通常なら娘婿の案は叶わないのですが、なんと豊臣秀吉は旭と佐治日向守を強制的に離縁させたのです。
これには、旭も佐治日向守もとても驚いたに違いありません。
一説によると、この時佐治日向守は大きなショックを受けてしまい自害した、または隠居したとされています。
徳川家康は正室の築山殿を失っており、豊臣秀吉に従っていた方が良いとする議論が起こっていたこともあったため、申し出を受けることにしたのです。
その後、1588年に仲の病気の見舞いのため上洛し、体調が回復した後は駿河に帰りましたが、1590年に病気になってしまい亡くなります。
享年47歳でした。
離縁してから4年、徳川家康との結婚生活は2年ほどで亡くなってしまったのは、病気もありますが離縁から生活が大きく変わった心労の影響もあったことでしょう。
旭のエピソード
旭は徳川家康の正室となりましたが、実質人質状態に変わりありません。
徳川家康が決断し、京都入りした際に、旭と仲を巡った出来事が起こります。
この時、留守を預かっていたのは本多重次で、徳川家康も驚くような行動をしました。
それは、仲と旭がいる屋敷の周りに薪を積み上げ、いざという時に焼き殺す準備をしたのです。
これに豊臣秀吉が激怒したのは、当然のことです。
もしものことがなかったため、旭と仲は無事でしたが、徳川家康に何かあったならば実行されていたと考えると、恐ろしい話です。
本多重次は小田原征伐の後、豊臣秀吉に命じられた徳川家康によって、自宅の一室に謹慎させられる蟄居の刑を科されました。
刑を科された背景は様々あるのですが、旭と仲の一件も関係しているのでないかをされています。
いくら覚悟をしていたとはいえ、当時の人質の意味がよく理解できるエピソードになります。
とはいえ、徳川家康は旭を大切に思わなかったわけではありません。
仲が病気の時は、旭を大坂に見舞いに行かせたのです。
人質を容易に行動させるのは、徳川家康にとって不利に働く可能性もありました。
ですが、徳川家康も人質で親と離れる経験をしていたため、旭が仲を心配する気持ちも理解できたのでしょう。
そして、快く送り出してくれた徳川家康に対し、旭も感謝していたはずです。
仲の体調が回復した際は、そのまま大坂に残らず、徳川家康のもとへ戻ってきたのです。
すぐに帰らずに大坂にいることもできたかもしれませんが、元々の役目を果たしに戻ったのです。
このような対応をしていたことから、もしかすると旭と徳川家康の間には信頼関係が少なからずあったのかもしれません。
再び仲が病気になった際も、旭が聚楽第に見舞いに行くことを許したのです。
しかしながら、この時見舞いに行った後は、徳川家康のもとへ戻ってくることがありませんでした。
実は旭自身も病弱だったため、駿河まで帰れなかったのでないでしょうか。
京都から駿河まで距離がありますから、長旅の影響で体調を崩してしまったのかもしれません。
また、旭が徳川家康の正室になったのは44歳の時で、他の側室と比べると高齢でした。
この時徳川家康は45歳で年齢的に近い相手だったものの、夫と離縁させられたり、豊臣秀吉との和議の成立に時間がかかったりと、苦労が多かったことも事実です。
病弱だったことに加え、急な環境の変化に対し、身体が追いつかなかったのでしょう。
とはいえ、旭が嫁いできた事情を一番理解していた徳川家康は、旭の死後も丁寧に扱いました。
亡くなった時、徳川家康は小田原征伐の出征準備をしていましたが、京都府京都市の東福寺に葬り、後に旭の冥福を祈って南明院を建立しました。
さらに駿河の泰雲山瑞龍寺にも墓を作ったことから、人質であっても大切にされていたことが分かります。
このように、旭は豊臣秀吉のために人生をかけた女性の1人だったのです。
まとめ
今回は、旭の生涯とエピソードをご紹介しました。
旭には夫がいましたが、豊臣秀吉が徳川家康との主従関係を結ぶために離縁され、正室として嫁がされることになります。
高齢になってから人質としての役目を果たし、2年ほどの結婚生活でしたが病気のため亡くなってしまいます。
豊臣秀吉の影響で人生が大きく変わってしまったことに、もしかすると徳川家康も同情していたのかもしれません。