日本には、過去に女性が天皇になった事例があります。
その1人が、持統天皇です。
もとは天武天皇の皇后だったのですが、どのような経緯で天皇に即位することになったのでしょうか?
また、どのような人物だったのでしょうか?
ここからは、持統天皇の生涯とエピソードをご紹介します。
持統天皇の生涯
第41代天皇である持統天皇は、645年に天智天皇の娘として生まれます。
諱は鸕野讚良(うののさらら)で、13歳の時に叔父の大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎます。
この時、天智天皇は一緒に他の4人の娘も嫁がせました。
661年には夫と共に天皇に随行し九州に行き、662年に草壁皇子を産みました。
翌年に天智天皇の娘である大田皇女が大津皇子を産みますが、5年後に亡くなってしまいます。
そのため、妻の中で最も身分が高いのは、持統天皇になりました。
672年に壬申の乱が起こり、大海人皇子が天武天皇として即位した後は、皇后となり天皇の政治を助けました。
そして679年に自身が天皇に即位するきっかけとなる、「吉野の盟約」が結ばれます。
これは、天武天皇が崩御した時、草壁皇子を天皇にすると発表したものです。
先述した通り、天武天皇の妻は1人でなかったため、自分の子が皇位を継ぐかどうか、最大の関心事でした。
加えて、天武天皇自身も壬申の乱を経て即位したため、争うことがないように事前に後継者を決めようと考えたのでしょう。
その後、天武天皇は病気がちになったため、政務は持統天皇と草壁皇子が共同で行うようになりました。
ですが、天武天皇の崩御後に事件が起こります。
天武天皇の子どもである大津皇子の謀反が発覚し、その後自害してしまいます。
それに加え、自分の子どもである草壁皇子も27歳の若さで薨去してしまい、盟約の通りの皇位継承が困難になってしまったのです。
そして残されたのは、草壁皇子の子どもである7歳の軽皇子(のちの文武天皇)でした。
自分の孫を天皇にしようと考えましたが、幼く皇太子に立てることも難しかったため、即位するまでに他の者が即位してしまう可能性がありました。
それを回避しようとして、持統天皇として自分が天皇になる道を選んだのです。
それから軽皇子が15歳になった時に譲位し、持統天皇は歴史上初めての上皇になりました。
702年に病気のため崩御します。
享年58歳でした。
後に火葬されて天武天皇陵に合葬されましたが、これは初めての天皇の火葬になりました。
持統天皇のエピソード
持統天皇が即位したのは、孫が成長するまで他の皇子が即位しないようにするためで、代打のような立ち位置になります。
しかし、政治的な視点から見ると、一貫して草壁皇子、軽皇子を天皇に即位させるために行動していたのでないかと考えることができます。
吉野の盟約にある通り、草壁皇子を次期天皇であると宣言させたのは、持統天皇の思惑によるものだったのでしょう。
そして、持統天皇の思惑は大津皇子にも及びます。
当時、大津皇子の評判は良く、次期天皇として最も期待されていた人物でした。
草壁皇子と同じく政治にも関わっていましたが、両者の決定的な違いは後ろ盾の有無にあります。
持統天皇と大津皇子の母は姉妹同士でしたが、大津皇子の母は早世しており、後ろ盾はありません。
一方で草壁皇子には天武天皇の皇后である持統天皇という、有力な後ろ盾があったため、皇太子の地位が定まっていたのです。
しかし、後ろ盾があるからと言って、安心できるとは言えません。
天武天皇の崩御後に大津皇子を皇位に求める動きを防ぐため、密告という形で謀反の疑いをかけたのです。
それにより大津皇子を追い詰め、自殺にまで追い込んだとされています。
実際のところ、大津皇子に謀反の計画はなかったため、持統天皇が先手を打ったのでないかと考えられています。
ところで、持統天皇がこのような対応をせざるを得なかった理由は、『日本書紀』から知ることができます。
その中に、大津皇子に対しては天武天皇から愛されている、才学がある、立ち振る舞いが優れているなど賛美の言葉を目にします。
しかし、草壁皇子についての賛美の記述はあまりないのです。
日本書紀の立場としては、草壁皇子を擁護する政権で書かれたものなので、本来なら賛美の言葉などあってもおかしくありません。
それでも他の皇子が賛美されていたということは、当時の朝廷においてあまり目立った存在でなかったのかもしれません。
そうなると、より有能な人物に皇位を継いでほしいという声が出るのは、当然のことでしょう。
その影響力を抑えるには、権力を持った人物でなければなりません。
いくら後継者としての立場が確立していたとしても、些細なことで変わる可能性はありますから、油断できなかったのでしょう。
野心のために大津皇子を追い詰めたというより、政治的手腕に優れた女性だったのです。
まとめ
今回は、持統天皇の生涯とエピソードをご紹介しました。
天武天皇に嫁ぎ草壁皇子を産みますが、一夫多妻制で後継者争いの不安をなくすため、吉野の盟約を結びます。
しかし、草壁皇子が早くに薨去してしまい、孫を天皇に即位させるための中継ぎとして、持統天皇は即位したのです。
自分の息子や孫を即位させるために邪魔な人物を排除したとされる持統天皇は、強かな女性だったのです。