真田信之に嫁いだ「稲」(小松姫)

歴史


関ケ原の戦いにおいて、真田信之は東軍に参加しています。
その理由の1つに、自分の正室となった稲が関係しているのです。
そして、元々いとこの清音院殿が真田信之の正室だったのですが、後に稲に変わることとなります。
真田信之の人生を変えた、稲の生涯やエピソードをご紹介します。

稲の生涯

稲は、1573年、「徳川四天王」と称される本多忠勝の長女として生まれます。
幼名は、稲姫、於子亥で、兄弟にもり姫や本多忠政、本多忠朝がいます。

そもそも真田信之の父である真田信之は、稲と婚姻関係を結ぶことになるとは思っていませんでした。
天正壬午の乱の終結後から、徳川家康と真田昌幸が対立していたのですが、豊臣秀吉の命令により、徳川家康に附属させられる形で決着することになります。
これがきっかけとなり、真田信之と稲の婚姻が成立したのです。

この時、稲が本多忠勝の娘として嫁ぐのを真田昌幸が了承せず、徳川家康の養女となり嫁ぐことに承諾したため、徳川家康が養父となっています。
そして結婚を機に稲は正室となり、真田信之の長男以外は稲の子どもとして考えられています。

しかしながら、関ケ原の戦いにおいて、真田昌幸と真田幸村は西軍に属しました。
戦後処理の際、真田信之と稲を始め、本多忠勝らの嘆願により、2人は高野山に流罪となります。
また、真田昌幸が病気を患った時に助命嘆願を繰り返すなど、稲と真田家の家族仲はとても良好でした。

稲の家族に対する愛情は深く、表向きは敵対していても、いつも気遣っていたそうです。

徳川家康が征夷大将軍になった際は、江戸の大名屋敷に稲も移り居住します。
大坂の陣では、真田信之が病気のため出陣できなかったため、冬の陣、夏の陣それぞれ真田信之や息子の真田信吉の家臣に対し、書状を宛てています。
どちらの内容にも、真田信之の代わりに子どもたちが出陣したため、それを気遣うような内容が書かれており、母として心配している様子が伺えます。

ところが1620年の春に病気を患い、草津温泉で湯治をするため、江戸から草津へ向かう途中、武蔵国鴻巣で亡くなってしまいます。
晩年は養父の徳川家康の勧めから、浄土宗の勝願寺の二世住職である円誉不残を拠り所とし、生涯にわたり信仰しました。

稲のエピソード

武門の家系である本多家ですが、稲もその血を受けて継いでいることが分かる民話があります。
それは、刀剣で猪を撃退したことです。

本多忠勝が大多喜城の城主になった頃、城の庭で稲はよく剣術を練習していたそうです。
城下に出かけた時、猪が、村人を襲おうとしていたところに出くわしたのです。

その中には、竹かごに入った赤ん坊もいて、危険が迫っている状況でした。
どんな人物であっても、この状況に尻込みしてしまい、動けないでしょう。
このとき、とっさに稲は動き、赤ん坊を救出し母親に渡したのです。

そして、猪に一太刀を浴びせて、撃退したのです。
まさに、稲は本多家の娘といえる行動を取ったのです。

これは千葉県大多喜町の民話ですが、猪を追い込んだ竹藪越しの小松姫の姿が輝いて見えたことから、「輝く姫様」と呼ばれ、後に「かぐや姫」と呼ばれるようになりました。
この出来事を忘れないよう、千葉県大多喜町では「かぐやご飯」という筍を使った炊き込みご飯を作っています。

その一方で、稲の婿選びはとても変わったものでした。
徳川家康が稲に婿選びさせる際、若い武将たちを呼び集めたそうです。
ここから稲の婿選びが始まるのですが、その選び方は頭頂部の束ねた髪を稲が掴み、顔をあげさせるという非常に特徴的なものでした。

徳川家康から呼ばれたということで、若い武将たちも緊張していたでしょうが、別の意味でも緊張することとなったのです。
稲のやり方に対し、反論する武将はいませんでした。
ですが、真田信之の番になった時、稲の手が髪に触れた瞬間、声を荒げたそうです。

そして真田信之は、稲の頬を鉄扇で打ったのです。
他の武将たちも稲のやり方を嫌がっていたかもしれませんが、徳川家康からの呼び出しの手前、逆らうことはできません。
もしかすると、真田信之も内心は焦っていたかもしれません。

しかし、稲は真田信之の行動を悪く捉えませんでした。
むしろ、簡単に屈服しない、強い心の持ち主だと感動し、稲にとっては好印象だったのです。
これは作り話ではありますが、このように創作されたのには理由があります。
2人の性格を表すためと考えられているため、少し変わったエピソードになっているのでないでしょうか。

ここからは、稲が勝気な性格であること、真田信之の意志の強さを知ることができますが、そのような2人だったからこそ結婚しても上手くいったのでしょう。
実際の2人の夫婦仲は良好で、周囲からもお似合いの夫婦だと言われているくらいでした。
敵対関係にあった家同士でも、結婚を機に上手くいくようになった一例になりますから、その時はまだ真田家がどうなるか予想できなかったはずです。

真田信之にとって稲は、心強い存在だったことでしょう。

まとめ

今回は、稲の生涯とエピソードをご紹介しました。
本多忠勝の長女である稲は、真田信之と結婚し、真田家とも良好な関係を築いていきます。
親の血を受け継いだ稲には、一太刀で猪を撃退した、勝気な性格による婿選びといった男勝りなエピソードが残っています。
徳川家と真田家の対立関係から始まった結婚ですが、それとは関係なく、稲は妻として真田信之を支えていったのです。

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