徳川家康に気に入られた「ウィリアム・アダムス」(三浦按針)

歴史


外国人ながらも、日本人として生きたウィリアム・アダムスの人生が変わったきっかけは、船が日本に漂着したことでした。
ところで、日本に漂着するまで、どのような人生を送っていたのでしょうか?
また、どうして徳川家康に気に入られたのでしょうか?
今回は、ウィリアム・アダムスの生涯とエピソードをご紹介します。

ウィリアム・アダムスの生涯

ウィリアム・アダムスは、1564年に船員の父のもとに生まれます。
父亡き後、12歳で船大工の棟梁に弟子入りしますが、ウィリアム・アダムスが興味を持ったのは造船術より航海術でした。
航海術を学んだ後、イギリス海軍に入り、1589年には結婚し、子どもを儲けます。

ですが、後に商船に乗るようになると、アフリカや北方航路の航海に忙しくなってしまい、家に戻る機会は少なくなりました。
そうした中、オランダのロッテルダムから極東に向かう航海士を探している噂を聞きつけ、ウィリアム・アダムスは志願します。
そして、ホープ号の航海士として採用され、極東に向け出発しました。

しかし、航海は困難なもので、ホープ号も太平洋で沈没、1600年に残ったリーフデ号が豊後臼杵の黒島沖に漂着します。
この時、110人だった乗組員は日本に漂着するまでには24人に減っており、自力で歩ける状態だった船員はたった6名ほどだったため、惨憺たる結果でした。
そして徳川家康は初めて引見した時、海賊船だと疑っていました。

しかし、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンの説明により、イエズス会の宣教師たちに植え付けられた誤解が解かれたのです。
堂々と説明を行った2人を気に入った徳川家康は、後に江戸に招きました。
それからウィリアム・アダムスは、外交時の通訳や助言をし、徳川家康の側近に数学や航海術を教えるなどして、交流を深めていきます。

また、リーフデ号が沈没した際には、西洋式の帆船の建造を要請され、伊東に日本初の造船ドックを設け、1604年に無事完成させました。
これらの功績から、旗本に取り立てられ、「三浦按針」の名乗りも与えられました。

徳川家康の存命時に数々の功績を残した一方で、死後、徳川秀忠に政権が移ると関係性は大きく変わります。
不遇な立場となり、天文官としての役目しか与えられず、1620年に平戸で亡くなりました。

ウィリアム・アダムスのエピソード

ウィリアム・アダムスが日本で生きてこられたのは、徳川家康に気に入られた時からでした。
なぜ気に入られるようになったのか、堂々と説明していた以外にもポイントは2つあります。

まず、ウィリアム・アダムスたちの祖国であるイギリスやオランダが、日本と貿易のみを望んでいたことです。
徳川家康は事前にイエズス会の宣教師から、イギリス人、オランダ人を処刑するように要求されていました。
これは、ヨーロッパの情勢におけるカトリック国とプロテスタント国の争いによるもので、交易地と布教地を失いたくない宣教師たちは必死だったでしょう。

実は、貿易と布教がセットでなければならないカトリック国との貿易に、徳川家康は悩んでいたそうです。
なぜなら徳川家康は、多くの国と貿易し、利益を得たいと考えていたからです。
実際に引見すると、イエズス会の宣教師が話していたことと違い、宗教上の対立関係にあることまで説明してもらったのです。

そうなると、徳川家康がどちらを信用するのかは明白です。

さらに、ウィリアム・アダムスたちが乗船していたリーフデ号には、西洋の武器が積載されていました。
火薬や大砲、砲弾、火縄銃が積載されていることを知った徳川家康は大変喜び、好意的に接するようになったのです。
これらの武器は、単に利益になるから喜んだのではありません。

徳川家康は、関ケ原の戦いでリーフデ号の搭載の大砲を使用し、これが小早川秀秋の裏切りを促すきっかけになったのでないかと考えられています。
徳川家康にとって障害となる人物がいたこともあり、実戦で使用された可能性がありますが、これだけの強力な武器を所有していることは周囲への抑止力にもなります。

ウィリアム・アダムスたちが日本に漂着したことは、徳川家康にとって吉事だったのです。

とはいえ、ウィリアム・アダムスはイギリスに帰国したいと思っていたこともあり、ある時帰国のチャンスに恵まれます。
しかし、貿易船の司令官であったセーリスとそりが合わず、残念ながら帰国は実現しませんでした。
人間関係の問題もありますが、日本に妻子もいたため、もしかすると必ず帰国しなければならないと強く思っていなかったのかもしれません。

ウィリアム・アダムスは、思わぬ形で徳川家康が天下人になることに貢献したと言っても過言ではありません。
また、イギリスやオランダとの貿易開始に尽力したため、プロテスタント国との繋がりを作った人物になるでしょう。

まとめ

今回は、ウィリアム・アダムスの生涯とエピソードをご紹介しました。
イギリスで航海術を学び、ホープ号の航海士となり極東に向けて航海しますが、日本に漂着してしまいます。
徳川家康に気に入られ、様々な功績から旗本になり、「三浦按針」として名乗ることが許されました。
ウィリアム・アダムスたちの知識や積載されていた武器は、徳川家康に幸運をもたらしたことに間違いありません。

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