石田三成と親しかった武将に、大谷吉継がいます。
同じ豊臣家の家臣であり、大坂城で開かれた茶会の件で石田三成の行動に感激したことも、関ケ原の戦いを決意したきっかけになります。
そんな大谷吉継は、どのような人生を送ったのでしょうか?
今回は、大谷吉継の生涯とエピソードをご紹介します。
大谷吉継の生涯
大谷吉継は、1559年、または1565年に近江国で生まれます。
豊臣秀吉には、最初小姓として仕えていましたが、1577年に織田信長から命令された播磨国攻略の際には、秀吉御馬廻り衆の1人として活躍していたそうです。
1578年には、毛利輝元の軍勢に包囲された尼子勝久を援護するために出陣した豊臣秀吉と共に従軍しました。
賤ヶ岳の戦いを始めとして、様々な戦で功績をあげます。
その功績から、従五位下刑部少輔に叙任され、「大谷刑部」と呼ばれるようになります。
1589年には敦賀城主となり、豊臣秀吉から「100万の兵を与えて戦の指揮を執らせてみたい」と言われるほどの知将になりました。
それから石田三成と共に豊臣政権を支え、軍監、奉行など多くの役割を担います。
1600年に徳川家康が上杉討伐軍を起こすと、自身も討伐軍に参加するため、大谷吉継は国をたちます。
徳川家康と大谷吉継は懇意にしており、前田利家との仲が悪くなり、徳川邸に襲撃の噂がたつと武断派と共に警護したため、今回も協力しようと考えたのでしょう。
その途中、石田三成の佐和山城に寄り、石田三成の嫡男を徳川家康との仲直りのため、自身の軍に従軍させようともちかけます。
ですが反対に、石田三成から徳川家康への挙兵をもちかけられたのです。
これに対し大谷吉継は困ったでしょう。
3度にわたり勝ち目がないことを説得しましたが、石田三成の決意は固かったため、大谷吉継は自身の息子たちと共に西軍として行動することにしました。
しかし、大谷吉継は小早川秀秋の裏切りにより、東軍と東軍に寝返った隊に包囲されてしまい、防御の限界を超え、隊が壊滅してしまいます。
その結果、大谷吉継は自害し、1600年に亡くなりました。
大谷軍の敗北は、悲しくも西軍が戦いに敗れ逃げてしまうきっかけになってしまうのです。
大谷吉継のエピソード
大谷吉継の幼名の「慶松」には、次のような由来があります。
大谷吉継の父として有力とされている大谷吉房は、妻と共に子どもができないことを嘆き悲しんでいました。
大谷吉房は八幡神社へ参詣し、願掛けをしようとしたのでしょう。
すると参拝後に、「神社の松の実を食べよ」という夢を見たのです。
夢で言われた通り、大谷吉房は神社の松の前に落ちていた実を拾い食べたところ、大谷吉継が生まれてきました。
松の実により授かった子どもであったため、幼名に「松」の字を入れたのです。
生まれや家族に不明点の多い大谷吉継ですが、名前についての思いが分かる伝説が残されています。
また、大谷吉継の外見について、白い布で顔を覆った状態の姿を思い浮かべる人が多いでしょう。
ですが、前述のような姿をしていたとは、断言できません。
なぜなら、そのイメージは『関ケ原合戦誌記』などの軍記物からきており、江戸時代中期までの逸話集に大谷吉継の外見が分かるような描写がされていないからです。
元々白い布で顔を覆っていたのは、ハンセン病を患っており、崩れた顔を隠すためとされています。
また、大谷吉継は梅毒を患っていたのでないかをいう説もあるため、ハンセン病だったと確実に言えないのです。
とはいえ、目を病んでいたことは確かです。
目の病が重篤化した際に出されたとされる書状の追伸には、印判を用いたことへの断りを入れていたそうです。
この時代の書状では、署名者と他者を区別するための符号や記号である、花押が使われていました。
花押は、自署の代わりとして使われており、様々な様式があります。
しかし、目の病が重篤化したとなると、自署が難しいのは容易に想像できます。
したがって、印判を用いるしかなかったのでしょう。
そんな大谷吉継には、自害の際のある噂があります。
裏切った小早川秀秋のいる陣に向かい、「義理人情のない人だ。3年の間に必ず祟ってやる。」と言い、切腹したそうです。
この発言だけでも衝撃的ですが、大谷吉継の最期の発言は実現してしまいます。
なんとこの祟りによって、小早川秀秋は原因不明で亡くなってしまうのです。
それは関ケ原の戦いの2年後であり、狂乱して亡くなったという壮絶なものだったそうです。
あくまでも噂ではありますが、大谷吉継の強い思いが少なからず影響したこともあり得るでしょう。
勝ち目がないと分かっていても、西軍として戦った大谷吉継ですが、西軍の瓦解がなければ戦の状況は違っていたかもしれません。
豊臣家の忠誠心と石田三成への深い友情を、最期まで抱いていた武将だと言えます。
まとめ
今回は、大谷吉継の生涯とエピソードをご紹介しました。
豊臣秀吉に仕え、石田三成と共に豊臣政権を支えた人物で、多くの役割を担いました。
徳川家康とも懇意にしており、勝ち目がない戦いだと分かっていながらも石田三成と共に西軍として行動します。
病気を患っていたことや小早川秀秋の原因不明の死に関係している可能性もありますが、義理人情を大切にしていた人物であることに違いありません。