3人の武将に仕えた「徳善院玄以」(前田玄以)

歴史


豊臣政権を支えた五奉行には、武将でなく僧もいました。
石田三成らと共に政治を行った徳善院玄以は、豊臣秀吉に限らず、織田信長、徳川家康からも厚い信頼を寄せられていました。
それぞれの武将の下で、どのような活躍をしたのでしょうか?
今回は、徳善院玄以の生涯とエピソードをご紹介します。

徳善院玄以の生涯

徳善院玄以は1539年に美濃国の前田基光のもとに生まれ、若い頃は美濃の僧で、禅僧、または比叡山の僧とも言われました。
後に織田信長に招かれて臣下に加わり、命により織田信忠付の家臣となります。
この頃、織田信忠は織田信長から家督を譲られ、美濃国や尾張国の統治を任せられた時期で、父としても信頼できる相手に側近として傍にいてもらおうと考えたのでしょう。

本能寺の変が勃発した際、徳善院玄以は二条城御所にいましたが、織田信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を清州城へ避難させます。
1583年には織田信長の次男の織田信雄に仕え、京都所司代に命じられますが、その翌年に豊臣秀吉の勢力拡大により、豊臣秀吉の家臣となり、後に丹波亀山城主になります。

豊臣政権において徳善院玄以は、京都所司代として朝廷との交渉役を務めるなど、高い政治能力を発揮していました。
その結果、1598年には豊臣秀吉の命令で五奉行の1人となりました。
豊臣秀吉亡き後は、豊臣政権の内部抗争の鎮静化に力を尽くし、徳川家康の会津征伐に反対する立場を取りました。

関ケ原の戦いでは、基本的に中立の立場として、豊臣秀頼の警護を大義として行動しますが、徳川家康弾劾状の副状の責任者にもなります。
上記のように、徳善院玄以は西軍の行動に全く関与していないわけではありませんでした。
しかし、挙兵に関わらなかった説もあります。

このような経緯が徳川家康に評価され、戦後は丹波亀山の初代藩主となりますが、1602年に亡くなります。
こうして、徳善院玄以は3人の武将と関わり、歴史が変わる瞬間を目の当たりにしてきたのです。

徳善院玄以のエピソード

徳善院玄以は、足軽組頭時代の豊臣秀吉と出会っていたことがあります。
実は尾張で住職をしていた時、親しい間柄にあったのです。
そして、ある夏の日に、2人は次のような会話をしました。

豊臣秀吉が、「自分が大名や将軍になったら、望みを何でも叶えるから、何か望みはあるか。」と聞いたのです。
それに対し徳善院玄以は、「京都所司代にしてください。」と言いました。
なぜ徳善院玄以がこのように言ったのかというと、過去に京都の禅寺で学んでいたことが関係しています。

京都にいた時に感じた周辺住民の気位の高さに、もしかすると多少なりとも嫌な思いをしたのかもしれません。
そのため、「京都の者たちの横柄さを憎らしく思っている。」と続けて、豊臣秀吉に理由を説明したのです。
これを聞いた豊臣秀吉は笑ったそうで、「御坊の才はその職にぴったりだ。」と言い、誓約書を書き渡したのです。

このやり取りは2人にとって、あくまでも戯れにすぎないものでした。
また、この時はまだ、豊臣秀吉が権力者になるとは思いもしなかったことでしょう。
しかし、この話は本当に実現するのです。
後に豊臣秀吉に誘われ家臣となったのも、もしかすると必然だったのかもしれません。

また、徳善院玄以が行政面で優れていたことが分かる逸話もあります。
それが、玄以の名裁きです。

今日の西山に空世という法師がいて、亡くなった際の相続に関する話です。
空世は亡くなる前に集まった親戚に対し、「私が死んだら庭の梅の木を長男に取らせ、家財以下のことは梅に付いて回るように。」と言ったのです。

これだけでは、空世の3人の子どもたちに何をどう分配するのか、誰も分かりません。
その結果、後妻と長男の親族で遺産を争うことになり、3年過ぎても遺産相続の取り決めができなかったのです。
そこで後妻は、徳善院玄以に仲裁を依頼しました。

すると徳善院玄以は、空世の発言の意味を次のように解説しました。
「梅を人に例え頭だとすれば、親のことを意味し、梅の木を長男が継げというなら、自分の代わりに父となり、家族全員の面倒をみよ。」と断言したのです。
この言葉を聞いた者たちは、抗議することができず、役所から引き下がり、徳善院玄以の言う通りにしたそうです。

徳善院玄以は空世に対し、「中々の風流人だった。」と褒めていました。
しかし、集まった者たちが「学識がないと分からない話だ。」と言ったように、この話は学識がないと不明な点が多いです。

もちろん、空世の発言の意味を正確にとらえたのかどうかも、この時は知る由がありません。
ですが、学識によって遺産相続のトラブルを解決に導いたのは、間違いないことです。

逸話の中の難しいトラブルの裁定をしたとされる徳善院玄以ならば、処世術に優れていただけでなく、能力面で3人の武将から評価されるのも当然のことでしょう。

まとめ

今回は、徳善院玄以の生涯とエピソードをご紹介しました。
最初は織田信長に招かれて家臣となり、その後豊臣秀吉、徳川家康に仕えることとなります。
特に豊臣秀吉とは昔から親しい関係にあったこともあり、家臣になった後は高い政治能力でサポートしていました。
それぞれ3人の武将のもとで上手く立ち回って行動していたため、処世術に優れていた人物だったのでしょう。

タイトルとURLをコピーしました