歴代の天皇に仕えた「藤原行成」

歴史

藤原行成は、早くに父親と祖父を亡くし一族が没落したにも関わらず、歴代の天皇のもとで活躍してきました。

また、字がとてもきれいな藤原行成は三蹟の一人で世尊寺流の祖なのですが、どのような人物だったのでしょうか?

藤原行成の生涯と、エピソードについて紹介します。

藤原行成の生涯

972年に生まれましたが祖父は同年に亡くなり、さらにその2年後には父も亡くなってしまいます。

そのため、藤原行成は外祖父である源保光に守られながら成長します。

984年に従兄弟にあたる皇太子・師貞親王によって藤原行成は従五位下になり、その年に師貞親王が即位して花山天皇になると、侍従に任ぜられ花山天皇に仕えました。

しかし、986年に花山天皇が出家してしまい、地位から転落してしまいます。

その後は、それなりに出世を続け従四位下になりましたが、なかなか官職に任じられませんでした。

しかし、藤原行成は積み重ねてきた努力が認められ、995年にとうとう官職につきます。

その後すぐに力量が認められ、正左中弁にまで昇格します。

その後、三条天皇の即位式が行われ宣命を読み上げる使者を務めた藤原行成は、藤原道長からその振る舞いを称賛されます。

そして、藤原行成は1013年に正二位になりました。

1016年には三条天皇から後一条天皇へ譲位され、1017年には藤原道長が摂政左大臣を辞し、長男が摂政となります。

これ以降の藤原行成は、摂政となった藤原道長の長男の側近的立場になったとみられています。

1019年には大宰権帥、翌年には権大納言になり、1026年には地方行政を監督する令外管となりました。

その翌年に藤原行成は、56歳で亡くなってしまいます。

藤原行成のエピソード

噂や昔話をまとめた「十訓抄」によると、歌について口論になった藤原実方に冠を奪われ投げ捨てられました。

冠のない頭を晒されて恥をかかされた藤原行成ですが落ち着いていて、女官に冠を拾わせたことも怒りませんでした。

この様子を見ていた一条天皇が、藤原行成の態度に感心し、蔵人頭にしました。

一方で、藤原実方を陸奥へ左遷したとされていますが、この話は史実とは異なるため、「十訓抄」の話は作り話だろうとされています。

また、藤原行成は字を書くのがとても上手く、三蹟の一人になっています。

和様書道の流派の一つである世尊寺流は、藤原行成を祖としていて、宮廷や貴族などでは最も威厳ある書法として用いられました。

まとめ

生まれてすぐに祖父や父を亡くし外祖父に守られて成長した藤原行成は、外戚関係にあった花山天皇に仕えましたが、天皇が出家してしまいその地位を失ってしまいます。

しかし、積み重ねてきた努力が認められ、蔵人頭となります。

その後も歴代の天皇のもと活躍し、56歳でこの世を去ります。

また、藤原行成はとても字が上手く、三蹟の一人になり和様書道の確立に尽力して、世尊寺流の祖となりました。

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