佐久間盛重の生涯

歴史

佐久間盛重は、戦国時代に織田信長に仕えて歴史の大きな転換点となった桶狭間の戦いの最前線で散った武将です。
一時は信長の弟の信勝の家老を務めたものの兄弟決戦では信長方に味方し、今川義元の大群から砦を死守して討ち死にしたのです。
織田家への忠義を貫き、日本の歴史を動かした名将・佐久間盛重の生涯を解説します。

信長に仕えるまで

佐久間盛重の生年は詳しく分かっておらず、前半生は多くの謎に包まれていますが尾張国の有力な国人領主であった佐久間氏の系譜に連なるとされている人物です。 当初は織田信長の父である織田信秀に仕えていて、信秀の死後に尾張織田家が後継者を巡って揺れる中で信長の弟である織田信勝付きの家老に任じられます。

1551年に行われた信秀の葬儀の席では、信勝の供奉として付き従っていたことが太田牛一の著した『信長公記』などの史料に残されているのです。
やがて、うつけ者と称されていた兄・信長と品行方正な弟・信勝の対立は決定的なものとなり、織田家を二分する家督争いへと発展しました。

多くの家臣が信勝の側に味方する中、盛重は一族の佐久間信盛らとともに最終的には信長を支持する決断を下したのです。
1556年に両陣営が直接激突した稲生の戦いが勃発し、盛重は信長方の最前線として名塚砦の守備を任されました。

信勝方の重臣であった柴田勝家や林秀貞らの激しい猛攻に晒されながらも、盛重は見事に砦を守り抜いたのでした。
さらには敵方の勇将であった橋本十蔵を討ち取るという目覚ましい武功を挙げ、信長からその高い武勇と深い忠誠心を認められるようになりました。

桶狭間の前哨戦での活躍

盛重の人生が大きく変わったのは1560年5月のことで、駿河の強大な戦国大名だった今川義元が数万とも言われる大軍を率いて尾張国への侵攻を開始したのです。 今川の侵攻に対して、信長は今川方の最前線拠点である大高城を包囲・牽制するため周辺にいくつかの砦を築きました。

盛重は中で最も重要かつ危険な防衛拠点である丸根砦の守備に任命され、隣接する鷲津砦と連携して大高城への兵糧搬入を阻止する任務を負っていたのです。
5月18日の夜、今川方の先陣を切った松平元康(のちの徳川家康)が大高城への決死の兵糧入れに成功します。

そのまま勢いに乗った元康の軍勢は、翌19日の未明に満潮の時間を突いて丸根砦へと一斉に襲いかかったのでした。
丸根砦に攻め寄せた松平軍は激しい鉄砲の斉射を浴びせながら砦を包囲し、兵力で圧倒的に劣る佐久間軍でしたが盛重は一歩も引かずに防戦に努めて獅子奮迅の戦いを見せます。

しかし多勢に無勢であり、激戦の末に砦は陥落となり盛重は敵の銃撃を浴びるなどして激闘の中に散り壮絶な討ち死にを遂げることとなったのです。
盛重が命を賭けて時間を稼いだことは、清洲城にいた織田信長に決定的な判断をもたらしました。

早朝に丸根・鷲津の両砦が攻撃を受けている報を聞いた信長は、有名な幸若舞「敦盛」を舞ったのちわずかな供を連れて出陣したのでした。
進軍中に丸根砦の陥落と盛重の死を知った信長は、兵力を結集させて今川義元の本隊へと狙いを定めます。

そして同日午後に起こった豪雨に紛れて桶狭間で休息していた今川の本陣を奇襲し、義元の首を取るという奇跡的な大勝利を収めたのです。
盛重の死後、実子は主家を替えながらも豊臣秀吉に仕えて家名を繋ぎ、娘は鬼玄蕃の異名を持つ佐久間盛政の妻となるなど、その血脈は後世へと受け継がれました。

華々しい勝利の陰で自らの職責を全うして戦国の歴史を動かした佐久間盛重は、織田家屈指の忠義の士として今も歴史にその名を刻んでいるのです。

まとめ

佐久間重盛は織田信秀の頃から織田家に仕えていて、信秀の死後は多くの家臣が信勝に味方する中信長側について稲生の戦いでは最前線の取りでの守備を見事に果たしました。 桶狭間の戦いが起こる前の今川家の侵攻では重要な防衛拠点の丸根砦の守備に任命され、松平元康と激しく戦って獅子奮迅の戦いを見せ防戦に努めたのです。 残念ながら激闘の中で壮絶な討ち死にを遂げてしまいましたが、桶狭間で信長が勝利する一因となりました。

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