豊臣秀吉の弟であり右腕でもあった豊臣(羽柴)秀長の「三家老」の一人として、大和の領国経営を支えたのが羽柴正親です。
実務家として頭角を現し、最後は豊臣政権を揺るがした大事件に巻き込まれて非業の最期を遂げた武将でした。
主家の断絶という時代の激流にのみ込まれていった、正親の生涯を紹介します。
内政と外交で発揮した稀代の手腕
羽田正親(はだ/はねだ まさちか)は近江国の出身とされ、1583年の賤ヶ岳の戦い頃から豊臣秀長に仕え始めた人物です。 秀長のもとで瞬く間に頭角を現した正親は、横浜一庵や小川下野守と並び「三家老」と称されるほどの重臣へと登り詰めます。
彼の真骨頂は華々しい武功よりも極めて高い実務能力にあり、1585年には紀州征伐後の和歌山城築城で普請奉行を務めたのです。
目立つ武功を挙げて昇進する武将が多い中、正親は実務面での功績によって大和小泉城主に抜擢され4万8千石を領します。
さらに、京都の方広寺大仏殿の造営に際しては熊野山奉行として困難な巨木の調達や流木の回収指揮を執るなど、豊臣政権の重要インフラ事業を陰で支え続けたのです。
また、徳川家康や小早川隆景といった大名との外交交渉の取次(窓口)も担っており、秀長領国の行政・外交の要として欠かせない存在となっていました。
大和豊臣家の断絶と秀次事件による最期
1591年に主君・秀長が病没すると正親はその養子である秀保に引き続き仕えることとなったのです。 ところが、1595年に秀保もまた17歳という若さで急死してしまい、大和豊臣家は突如として断絶の憂き目に遭うこととなりました。
後ろ盾を失った正親は関白・豊臣秀次の直臣へと転じることで活路を見出したものの、彼の運命は大きく変わることとなったのでした。
仕え始めてからわずか数ヶ月後の1595年7月、豊臣政権を震撼させる「秀次事件」が勃発し、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山で切腹へと追い込まれます。
さらにその一族や重臣たちにも過酷な処分が下されることとなり、正親もこの大嵐から逃れることはできず事件に連座して越前国の堀秀治のもとへ身柄を預けられたのです。
そして同年の8月に越前の地で切腹を命じられ、40代半ばという若さでその生涯を閉じるという実直に豊臣家を支え続けた男のあまりにも理不尽で非業な最期となりました。
まとめ
豊臣秀長を支えた実務派の重臣・羽田正親の生涯は豊臣政権の急速な「栄華」と「崩壊」の縮図そのものであり、まさしく豊臣政権の実務を支え続けた武将だったのです。 城郭の普請や大仏殿の造営、諸大名との外交など、豊臣の天下を実務面から盤石にした功績は計り知れなかったものの、主家の断絶と内部抗争という時代の荒波に翻弄されました。 最期は悲劇的な連座によって散った彼の足跡は、戦国乱世の厳しさと切なさの象徴です。


