宮部継潤は、比叡山の修行僧という異色の経歴から豊臣秀吉の最高幹部である宿老へと登り詰めた知勇兼備の智将です。
浅井・朝倉氏との戦いの中で秀吉に発掘され、鳥取城攻めや九州平定などの大戦で抜群の軍功と内政手腕を発揮して西国行政府を委ねられるほど厚い信頼を得たのでした。
継潤の激動の生涯を、紹介していきます。
僧侶からの転身と秀吉との出会い
宮部継潤は近江国(現在の滋賀県)の国人領主の家に生まれ、若い頃は比叡山延暦寺で修行を積んで優れた学識を持つ僧侶として頭角を現したのです。 しかし、時代の荒波の中で還俗することとなり、北近江を支配する浅井長政に仕える武将となりました。
運命が激変したのは織田信長による浅井攻めで、要衝である宮部城を守っていた継潤は織田軍の山陰・北陸方面の総大将であった秀吉から猛烈な調略を受けたのです。
秀吉の器量を見抜いた継潤は織田方に寝返り、以後は秀吉の最古参の「軍師・補佐役」として深く信頼されるようになります。
後に秀吉の養子となる織田信長の四男の羽柴秀勝の養父役を任されたことからも、当時の秀吉が継潤に寄せた期待の大きさがうかがえるでしょう。
豊臣政権の最高幹部に
秀吉の中国攻めが始まると継潤は持ち前の知略と政治力を発揮して、特に苛烈を極めた「鳥取城の兵糧攻め」では城の包囲網の中心として活躍しました。 城主の吉川経家が切腹して開城した後は、実績を買われて因幡国(現在の鳥取県東部)の国主に抜擢されたのです。
継潤の手腕は戦場だけに留まらず、九州平定や小田原征伐でも軍功を挙げながら豊臣政権の重要施策である「太閤検地」や「刀狩り」を西国で主導しました。
その実務能力は後の「五奉行」に比肩するものであり、秀吉の晩年には京都の司法・行政の最高責任者である「京都所司代」に任じられて政権の頭脳として君臨したのです。
秀吉の急死を見届けた後、慶長4(1599)年に豊臣家の一大巨星としてその生涯を閉じることとなり、彼の死の翌年に関ヶ原の戦いが勃発することになります。
まとめ
宮部継潤の生涯は、僧侶ゆえの「高い教養と広い視野」が戦国という乱世で最強の武器になることを証明した軌跡であり、単なる武功派の武将とは一線を画したものでした。 兵糧の管理、検地の執行、さらには京都の治安維持まで、秀吉が最も困難な実務を真っ先に任せたのが継潤で、豊臣政権の誕生と安定は知略溢れる継潤の働きが大きかったのです。 継潤の献身的な支えがなければ、決して成し遂げられなかったと言えるでしょう。


