明智光秀は、本能寺の変におけるキーパーソンになります。
しかしながら、なぜ織田信長に謀反を起こしたのか、その動機は明らかになっていません。
謀反の重大さをよく理解している人物であるにもかかわらず、行動に移した背景には何があるのでしょうか?
今回は、有名な2つの説について解説します。
怨恨が理由で謀反を起こした
まず解説するのは、織田信長に対する鬱憤が溜まった結果、謀反を起こした説です。
この説を解説する前に、明智光秀が織田信長の家臣に選ばれた理由を押さえておきましょう。
明智光秀は、元々織田家の家臣ではありませんでした。
当時、家臣を選ぶ時は自分の家の味方になっている家、譜代から選ばれることが一般的でした。
しかし、明智光秀は織田家からすると、昔から味方の家でない外様に位置する家だったのです。
この流れを踏まえると、明智光秀は信頼度の高い家臣になることはできません。
ですが、織田信長は家臣を家柄でなく、個人の能力によって登用していました。
そのため、明智光秀は個人の能力が評価されて、織田信長の重臣にまで上り詰めたのです。
ここまで知ると、能力の高い家臣である明智光秀を、織田信長は大切にするだろうと思うでしょう。
ですが、実際は違いました。
織田信長から酷い扱いを受けており、明智光秀も慕っている主君とはいえ少なからず思うところがあったようです。
その様子をイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記録しているため、行為自体があったことは事実だと言えます。
明智光秀の心のうちは分かりませんが、積もり積もったものが爆発してしまう心境に共感できる方もいるでしょう。
明智光秀の扱いに関する話の一例には、明智光秀の実母に関する出来事が挙げられます。
1579年に明智光秀は丹波国の攻略に成功しましたが、その裏では実母が織田信長によって殺害されています。
丹波国の波多野秀治が明智光秀を裏切った際、織田信長に降伏をするための保証として、実母を人質として預けていました。
ですが、織田信長は波多野秀治を殺害し、それに激怒した波多野家は人質の明智光秀の実母を殺害してしまう悲しい出来事が起こりました。
何より、明智光秀の実母の事情を織田信長は知った上で行っていますから、いくら主君といえども我慢できるものではありません。
他にも、本能寺の変の直前に織田信長が中国攻めの手助けを明智光秀に命じた際に、現在の領地を取り上げたことも挙げられます。
この話には続きがあり、現在の領地を取り上げた代わりに中国攻めが成功すれば出雲国、石見国を領地として治めさせると言ったのです。
もしかすると、織田信長は明智光秀を奮い立たせようしたのかもしれません。
ところが、これが左遷の宣告だと認識されてしまうとどうでしょう。
褒美として提案された場所は、政治や文化の中心地から遠く離れた場所であるため、自身の活躍や功績からすると釣り合いが取れません。
これまでの所業の数々からすると、モチベーションが上がるどころか、謀反の決定打になってしまってもおかしくないはずです。
四国攻めを中止させるため
次に解説するのは、四国攻めを中止させるために、あえて明智光秀が謀反を起こした説です。
明智光秀の家臣であった斎藤利三が謀反に対して反対しますが、他の家臣に押し切られてしまったという話が残っています。
ここでポイントになるのは、四国、土佐国を治めていた長曾我部元親。
始めのうちは共通の敵を倒すために、織田信長と長曾我部元親は同盟を結んで協力関係にありました。
その流れが変わったのが、長曾我部元親の宿敵である阿波国の三好家が織田信長の家来になった時です。
1582年に同盟を破棄し、織田信長は四国に大軍団を送り込もうとしました。
これに驚いたのは、長曾我部元親だけではありません。
これまで長曾我部元親と織田信長の仲介役をしていた、明智光秀も状況の変化に驚くと同時に、両者の板挟みになってしまったのです。
長曾我部元親は織田信長に従う方向だったので、何も起こらなければ滞りなく交渉が数量したでしょう。
しかし、織田信長は四国攻めを決定し準備まで行っていたとなると、これまでの交渉の苦労が水の泡です。
もう一つ、長曾我部元親との関係で明智光秀には懸念要素がありました。
それは最初に少し触れましたが、家臣の斎藤利三についてのことです。
そもそも明智光秀が長曾我部元親との仲介役を行っていたのは、家臣である斎藤利三の兄石谷頼辰の存在が関係しています。
石谷頼辰は石谷光政の娘と結婚し養子に入っており、その義理の妹が長曾我部元親の正妻である関係にあります。
つまり、長曾我部元親とは親戚関係にあるため、四国攻めが行われると家臣にまで影響及ぶ可能性があったのです。
何かしら手を打たなければならないと焦ってしまう明智光秀の気持ちは、容易に想像できます。
まとめ
明智光秀が織田信長に謀反を起こした2つの説について解説しました。
一つは織田信長に対する怨恨であり、そう捉えられてもおかしくない言動が多々ありました。
もう一つは、長曾我部元親との関係から四国攻めを中止するためです。
これまでの関係性や和平交渉の立場がなくなることを考えると、もしかすると謀反しか織田信長を止める選択肢がなかったのかもしれません。