気性が荒いと言われる織田信長が恐れた戦国武将、武田信玄。
安土桃山時代において、武田軍は最強の名を轟かせました。
そんな武田信玄の生涯は、決して穏やかなものではありませんでした。
ここでは、武田信玄の生涯と有名なエピソードをお話しします。
最強の戦国武将の人生を見てみましょう。
武田信玄の生涯
武田信玄は、1521年、甲斐国武田氏の武田信虎の嫡男として生まれます。
幼名は「勝千代」でした。
1536年、元服する際、室町幕府第12代将軍足利義晴から、「晴」の諱を賜り、名を「晴信」と改めました。
この年の11月に初陣したとされ、戦国武将としての階段を上っていきます。
武田信玄の転機は、21歳です。
なんと武田信玄は、自分の父である武田信虎を甲斐国から追放してしまうのです。
実父を追放した理由は、悪政を行っていたからです。
領民から高い税を徴収していたり、家臣を殺したりする目に余る行動が多々ありました。
いくら戦国の世であっても、目に余ると判断したのでしょう。
それを見かねた武田信玄は、自分が当主になることで悪政を断ち切ろうとしたのです。
そのため、武田信玄は若くして大名の地位に就きました。
そして、甲斐国の隣国である信濃国とは何度も戦うことになります。
その中で、武田信玄は初めての敗戦を経験します。
1548年、村上義晴と戦った上田原の戦いです。
戦に強いイメージのある武田信玄ですが、常に勝ち続けているわけではありません。
悔しいことですが敗戦を経験することで、より強くなっていったのです
ところで村上義晴について補足ですが、彼は越後の戦国大名である上杉謙信の庇護を受けており、ここでも武田信玄には因縁が生まれます。
上杉謙信と武田信玄は、5回川中島で戦うことになりますが、いずれも決着がつきませんでした。
決着がつかないくらい、上杉謙信、武田信玄の両者は優れた戦国武将だったのです。
この2人は、戦以外にも色々なエピソードが残っているくらい、有名なライバルだったことが今でも記録に残っています。
1572年になると、室町幕府の足利義昭から、武田信玄に織田信長の討伐依頼が要請されます。
そのため、甲斐国から西へ進軍することになりました。
その途中で徳川家康を討ち取るため、遠江の領地にも侵攻し、1573年の三方ヶ原の戦いに勝利、三河の野田城を落とすことに成功します。
しかし、ここから状況が一変します。
討伐要請も成功できるかと思っていた矢先、武田信玄が吐血してしまったのです。
体調を気遣い甲斐国に戻ることとなりますが、体調が良くなることはありませんでした。
1573年、武田信玄は病気により53歳で生涯を終えることになります。
武田信玄の残した遺言によると、自分の死を3年間は隠すようにと指示していました。
これは、武田信玄の亡き後、甲斐国が隣国に攻められることを恐れ、それを防ぐために残しました。
甲斐国のことを最後まで案じていた戦国武将だったのです。
武田信玄のエピソード
武田信玄が強い戦国武将と言われる理由は、自身の優秀さにあります。
実は、幼少期に神童と呼ばれており、学問、武術においてとても優秀でした。
例えば、庭訓往来を2~3日で読み終え、かつ内容をすべて覚えてしまったというエピソードがあります。
その様子を見た教育係の和尚が良かれと思い、中国の軍事書である「孫子」や「三略」も教え込みました。
実は、この頃から戦国武将としての才能を開花させていたのです。
そして、武田信玄の優秀さは、武田軍の強さにも影響を与えています。
例えば、甲斐国が発展するには領地拡大が重要なため、それを実現するには家臣に恩賞を与え、国を豊かにし領民から支持を得ることが大切だと考えていたのです。
どちらかが欠けてしまうと、支持が得られず国が弱体化してしまいます。
そのために、戦に負けないだけでなく、勝ちすぎないことを徹底しました。
戦に勝つことは大切ですが、勝ちすぎるとおごりが出てしまい油断してしまうだけでなく、相手も強さに警戒するようになってしまい勝ち続けることが難しくなります。
このような状況に陥らないために徹底したのが、情報収集です。
忍びなどから相手方の情報を知ることで、戦をしたとしても勝てるかどうかを計算していたのです。
よって、歴史上勝利した戦は、武田信玄が下調べの結果、勝てると判断した戦だった言えます。
忍びを用いた情報収集は、あの織田信長からも恐れられていたくらいでした。
つまり、幼少期に勉強したことを活かし、戦略的に行動していた戦国武将が武田信玄です。
優秀な戦国武将が率いていた軍ですから、強いのは当然なのです。
国思いの武田信玄は、常に国のためになると思って様々な行動を起こしてきました。
このような強い思いがなければ、悪政を行っていた父を追放することはできません。
強い武田家のイメージは、武田信玄が作り上げたと言ってもいいでしょう。
まとめ
武田信玄は、若くして戦国武将になれるくらい優秀な人物でした。
親の悪政を見抜くだけでなく、強い軍を作り上げたことは、幼いころの勉強の成果でもあるうでしょう。
しかしながら、病気のため53歳の若さでこの世を去ってしまい、早くに歴史からいなくなってしまった人物でもあります。
さらに自分の亡き後について遺言を残していたことから、最期まで甲斐国のことを思っていた戦国武将だったのです。