徳川家最強の武将「本多忠勝」

歴史

徳川家の家臣を語る際、本多忠勝なしで語ることはできません。

そう語られるくらい、生涯をかけて徳川家康に奉公した戦国武将の一人になるのです。

有名なエピソードには、57回の戦闘に参加しても傷一つつかなかったことが挙げられます。

そんな本多忠勝の生涯とエピソードについてご紹介します。

本多忠勝の生涯

本多忠勝は、1548年徳川本家である松平家に仕えている家臣、本多忠高の長男として生まれます。

しかし、翌年の1549年に安城合戦で父が戦死してしまい、思い出は多くありません。

その結果、叔父の本多忠真に実母と共に引き取られ、生活していきます。

本多忠勝の初陣は、1560年13歳の時でした。

桶狭間の戦いの前哨戦にあたる、大高城兵糧入れで活躍します。

その際、敵将に討ち取れられてしまうピンチに陥りましたが、叔父本多忠真のサポートで命を救われます。

桶狭間の戦いの後は、徳川家康と共に戦に向かい、武功を重ねていきます。

そして、1562年の鳥屋根攻めで本多忠勝が初めて敵を討ち取ることに成功しました。

徳川家康が今川家から独立すると、本多忠勝は「家康旗本衆」と呼ばれる徳川家康直属の部隊に配属されます。

徳川家康の軍備体制の中でも親衛隊に位置する部隊に配置されたのは、本多忠勝19歳の時でした。

そこから、本多忠勝は54騎を統率する戦国武将へと成長していきます。

戦の中でも、本多忠勝が状況を変えたのは、1570年に起こった姉川の戦いになります。

なんと、敵側である朝倉軍の正面に本多忠勝単騎で突入するという、驚きの行動をとったのです。

単騎で突入した際、本多忠勝を討たせないために徳川軍が奮起したため、朝倉軍の陣形を崩すことに成功したのです。

また、1584年には小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉とも戦をしています。

さらに、徳川家康の命運を左右する関ケ原の戦いでも、大きな活躍をしています。

関ケ原の戦いの時、本多忠勝は東軍の最高司令官である「軍監」の役職に就いたのですが、軍全体の指揮を執るだけでなく、自分でも敵側の首を討ち取りました。

数々の活躍をしていた本多忠勝ですが、関ケ原の戦い終了後江戸幕府が開かれると、眼病に罹ってしまいます。

それ以前にも病に罹ったことで隠居を申し出ていたのですが、徳川家康はその申し出を思いとどまらせていました。

そして1609年に家督を息子である本多忠政に譲り、自身は隠居生活に入ります。

翌年、1610年に本多忠勝は63歳で生涯を終えました。

本多忠勝のエピソード

本多忠勝のトレードマークといえば、天下三名槍の一つである「蜻蛉切」。

蜻蛉切という号の由来は、本多忠勝が不槍を立てて休んでいた際に、槍の穂先に停まったトンボが真っ二つに切れてしまったところにあります。

戦を共にした相棒ともいえる槍ですから、現在でも有名な武器の一つになります。

さらに、槍だけでなく本多忠勝の頭の角「鹿角脇立兜」も有名です。

これは両脇から鹿の角が生えている兜なのですが、鹿の角にこだわっているのには理由があります。

実は追手から逃げる際、川が増水していて渡れなかったところ、突然鹿が現れて、浅瀬を通って向こう岸に渡ったのを目撃したのです。

その鹿の通り道を本多忠勝はそのまま通ることで、何とか追手から逃げ切ることができました。

この出来事から、鹿を武運の神である八幡神の御使いであると考えて、鹿の角の兜を被るようになったのです。

神秘的な経験をしたからこそ、選んだ兜であると言えるでしょう。

また、本多忠勝は徳川家康以外の戦国武将から、様々な評価がされていることでも有名です。

例えば、豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いでは、徳川軍が苦戦していることを聞き、徳川家康の留守を預かっていた本多忠勝がわずか500名の兵を率いて応援に来たのです。

その功績を豊臣秀吉から認められ、「東国一の勇士」と敵ながら評価されており、油断できない相手だという印象を植え付けたに違いありません。

もう一つ、1572年本多忠勝が25歳の時にあった一言坂の戦いでも、武田軍の戦国武将から評価されています。

本多忠勝は一言坂の戦いで、武田信玄が遠江国に侵攻した際の偵察を行っていましたが、見つかってしまい窮地に陥ります。

この時、本多忠勝が殿を務め、武田軍の追撃を遅らせたことで、徳川家康軍本体は無事に撤退できたのです。

無謀にも思われる行動でしたが、敵味方問わず本多忠勝の武将の凄さを知ることになりました。

この本多忠勝の行動が、叔父本多忠真を安心させたのかもしれません。

後に起こった三方ヶ原の戦いで本多忠真は退却時に自ら殿を務めた結果、討死してしまいます。

幼少期から叔父と過ごす時間の多かった本多忠勝の戦場での勇姿を見て、今後を考えることもあったことでしょう。

本多忠勝は、親の代から徳川家に長く仕え、戦と共に生きていた戦国武将でした。

まとめ

本多忠勝は、徳川家康と共に戦国の世を駆け抜けた戦国武将です。

初陣の時から関ケ原の戦いにかけて、様々な戦で活躍し武功を挙げて、最強の戦国武将と言われるくらいになりました。

天下三名槍の蜻蛉切や鹿角脇立兜のエピソードも、本多忠勝を知る上で欠かせないものになります。

敵味方問わず多くの武将から評価されているのは、単騎で乗り込むなどの勇猛果敢な行動の結果だと言えます。

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