三河一向一揆は、徳川家康の生涯における3つの危機のとして数えられています。
宗教の影響で、自身の家臣団が分裂してしまう大きな出来事に発展しました。
この三河一向一揆の中心人物となるのが、空誓上人。
どのような経緯で三河一向一揆が起こったのかも含めて、空誓上人の生涯やエピソードをお話しします。
空誓上人の生涯
空誓上人は、愛知県安城市野寺町にある本證寺の10世で、浄土真宗本願寺派の僧侶です。
父が本願寺派中興の祖である蓮如の孫と言われていますが、本證寺9世が加賀一向一揆に加わるため遠征した際に戦死し、顕如の融子として本證寺の主僧を継ぎました。
1563年になると三河一向一揆が起こり、空誓上人は中心人物として動き、本證寺も拠点の一つとして数えられることになります。
そもそも三河一向一揆が起こるきっかけは、本證寺の守護使不入権にありました。
守護使不入権とは、元々幕府が設定した荘園や公領に対して、守護や役人が徴税や犯罪者を追跡するためであっても侵入してはいけないという決まりのことを言います。
これは幕府の権威があることで効果を発揮する決まりなのですが、戦国時代になると幕府の権威よりも、各地を治めている戦国大名の力が高くなります。
鎌倉幕府や室町幕府の時の影響力と比べた時、パワーバランスの違いから生じてきた出来事になると言えるでしょう。
戦国大名の中には下剋上の風潮の下、自分の力で国を切り開いてきた者もいるため、守護使不入権の特権を否定する考えや行動が見られるようになりました。
教団の利権を解体し、西三河統一を目指す徳川家康(当時は松平家康)と、不入権を主張する一向一揆という構図で戦いが始まります。
空誓上人は怪力の持ち主で鎧をつけ鉄棒を振り回すなど、一揆衆を率いて戦いましたが、敗戦してしまいます。
その後、14世順世が空誓上人をかばい逃がすため、自らを空誓だと名乗り自害、松平氏と和議が結ばれ一向一揆は解体されます。
三河一向一揆後、歴史上に空誓上人が登場するのは、1583年です。
徳川家康が国内の本願寺派を20年ぶりに赦免した際、書類の改ざんを行ったことで空誓上人は登場しています。
そして、1585年に本證寺が復興し、諸役免除の特権が回復された後は徳川家康に接近する機会が多くなります。
晩年には江戸城に招かれ、尾張藩主になる九男を助けるように依頼されるほどの関係になりました。
三河一向一揆から一転、晩年には江戸幕府や尾張藩と密接な繋がりを持ったため、関係性が大きく変わった人物だと言えるでしょう。
空誓上人のエピソード
三河一向一揆で、空誓上人は指導者に祭り上げられた説があります。
しかし、実際のところは空誓上人も主導して戦っていたため、祭り上げられて仕方なく戦っていたというわけでなさそうです。
そもそも空誓上人は、最初にも述べた通り蓮如の孫という立場の人物で、一向宗からすると宗派の重要人物になります。
そのような人物を三河、本證寺に移したのは偶然だったのでしょうか?
もしかすると、一向一揆が三河でも起こることを予期して、移したのかもしれません。
ところで、三河は一向宗にとってどのような地だったのか、一向宗の立場から見てみましょう。
一向宗の開祖の親鸞は、東国へ布教のために行脚した際、箱根の後に三河に立ち寄っていたそうです。
三河の民衆と一向宗の教義の馴染みが良かったのか、熱心な民衆が多く、布教活動にも力が入りました。
この後も一向宗の信者が増え、室町時代には蓮如が三河の土呂に本宗寺を建てたことにより、布教だけでなく信者の活動も活発になりました。
つまり三河は一向宗にとって、親鸞が立ち寄り布教した地でもあり、活動が盛んな地域として位置づけられています。
そのような場所に対し、徳川家康は守護使不入権の特権を侵害、剥奪しようと考えていたのです。
一向宗、空誓上人からすると、自分たちのテリトリーや特権を侵害されたことに間違いありません。
一向宗の布教の始まりの流れから特権を守るために蜂起したと考えると、空誓上人が自ら声をかけ一揆を起こしたことが理解できるでしょう。
また、徳川家康の家臣の中でも一向宗の方へ離反した者がいたのは、三河という地自体が一向宗の信仰に熱心だったことが関係していたのです。
ちなみに、守護使不入権の特権を与えていたのは、徳川家康の父である松平広忠です。
松平広忠が三河を統治していた頃は、松平氏の統治基盤が安定していなかったため、特権を認めていたのでないかと考えられています。
ですが、息子の代になると、状況は変わりました。
徳川家康は今川氏の人質から解放されますし、三河の平定を狙って行動し始めます。
もはや統治基盤が不安定だった父の代とは、違っているのです。
一向宗と徳川家康の思惑が重なった結果、起こった出来事だと考えられます。
まとめ
今回は、空誓上人の生涯とエピソードについてお話ししました。
三河一向一揆の際、武闘派の空誓上人は中心人物として一揆衆を率い、守護使不入権をかけて徳川家康と対峙します。
敗戦後は生き延び、後に江戸幕府と密接な繋がりを持つくらいになる関係性へと変わります。
三河が一向宗の熱心な信仰の地であったことは、徳川家康を最後まで苦しめた要因の一つに変わりないでしょう。