徳川家康が今川家の人質になった時から繋がりのある家臣、渡辺守綱。
徳川家康と同い年で、槍を得手としている武将になります。
三河一向一揆の際には信仰心の関係で一時離反しますが、最終的には徳川家康の下に戻ってきています。
そんな渡辺守綱の生涯とエピソードについて、今回はご紹介します。
渡辺守綱の生涯
渡辺守綱は、1542年に三河国額田郡浦部村に生まれ、父渡辺高綱は松平家の家臣でした。
1557年、16歳の時に今川氏の人質となる徳川家康に出仕し、翌年の1558年には徳川家康に付き従い初陣します。
徳川家康が今川氏の人質から解かれると、三河国平定のために行動を共にしていきます。
ここからは、渡辺守綱の戦での活躍を見てみましょう。
まず1561年の長沢城攻めでは、敵将を討ち取ることに成功します。
さらに1562年の八幡村城を攻めた戦いでは、結果として敗北したものの、徳川家康を逃がすため殿を志願し、敵を撃退しています。
しかし、1563年の三河一向一揆で徳川家康と共に戦うことが叶わなくなります。
渡辺守綱は熱心な一向宗の信者であったため、一向宗側について戦ったのです。
他にも一向宗側についた家臣はいましたが、長年戦を共にし、年の近かった家臣がいなくなったことは徳川家康にも大きな影響を及ぼしたことでしょう。
三河一向一揆が鎮圧された後、徳川家康は渡辺守綱に恩情をかけたため、帰参することができました。
この後は、徳川家康の傍から離れることなく、最期まで仕えていきます。
1570年の姉川の戦いや1573年の三方ヶ原の戦い、1575年の長篠の戦いでは、槍一本で敵と戦い、貢献していきました。
徳川家康が江戸幕府を開くと、尾張藩主になった九男の徳川義直の付家老に任命されます。
これは監督・補佐としてつけられる家老のことで、自分の息子の傍につけるくらい信頼していたことの証として考えることもできるでしょう。
また、寺部城を居城とし城主になりますが、徳川義直の護衛として、1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣にも参戦します。
この時、渡辺守綱は70歳を超えていましたが、高齢であっても槍を携え、戦場に出ていたそうです。
高齢になると必然的に指揮する立場で活躍することが多くなりますが、そうではなかったのです。
その姿は、頼もしいとしか言いようがありません。
1616年の徳川家康の死後から4年後の1620年、さすがの渡辺守綱も病には勝てず、79歳でその生涯を閉じました。
後に渡辺守綱の功績は、徳川十六神将の一人として広く世間に知れ渡るようになります。
とはいえ、三河一向一揆の後、徳川家康からの許しにより帰参できなければ、最期まで仕えることはできなかったかもしれません。
まさに徳川家康の判断が、渡辺守綱にとっての人生の分かれ道になったと言えます。
渡辺守綱のエピソード
徳川家康の家臣の中に服部半蔵がいますが、彼は「鬼半蔵」と言われていました。
同時に、渡辺守綱は槍の名手であったことから、「槍半蔵」と呼ばれ並び称されていたそうです。
そして槍半蔵の異名は、渡辺守綱の生涯を表していると言っても過言ではありません。
初陣の時から槍一本で戦っており、生涯を通して一兵として最前線で戦っていたのです。
長篠の戦いで鉄砲が使用されてから時が経つにつれ、鉄砲も戦の主力兵器の一つになりました。
また、戦も個人戦から集団戦へと戦い方が変わってきており、今までの戦術が通用しないことも出てきます。
そのような状況でも槍での個人戦を追求し、武功を立てていたことから、その姿に憧れる武士も少なくありませんでした。
徳川十六神将に数えられている家臣の中からすると、渡辺守綱は身分が高いわけではありません。
それでも徳川十六神将に数えられたのは、亡くなるまでの間、第一線で戦ってきたことが評価されたからでしょう。
ある程度の実力があると、家臣の中には出世を狙って行動する者も珍しくありません。
ですが、渡辺守綱は三河一向一揆後に帰参が許された恩があることから、出世欲よりも主君に誠実に仕えることを第一に行動してきたのでしょう。
出世欲と実力は、別であることが分かります。
実際、関ケ原の戦いの時まで渡辺守綱は足軽頭の立場で戦場をかけていたそうですから、立場に関係なく、常に求められていた役目を果たしてしたのです。
功臣としての評価もあり、渡辺家は将軍のお目にかかることが許された家として、渡辺守綱の死後も存続し続けました。
渡辺守綱は、戦にまつわるエピソードが多いため、戦歴がはっきりしている武将でもあります。
徳川家康の家臣の中には、有名な人物であっても戦などの記録が乏しいせいか、後世で以外に目立たない人物も少なくありません。
戦歴が明確であるということは、それほどまで活躍が多くの人に知れ渡っていることを意味します。
体術的な強さで評価するなら、武将の中でもトップクラスになるかもしれません。
槍半蔵と呼ばれた渡辺守綱の活躍は、これらのエピソードから現代でも多くの人に語り継がれているのです。
まとめ
今回は、渡辺守綱の生涯とエピソードについてご紹介しました。
三河一向一揆に前まで徳川家康に仕えていましたが、離反した後に帰参が許されます。
その後は最期の時まで主君に仕え、数々の功績を残していたため、戦に関するエピソードが多い武将でもあります。
特に槍半蔵と称された姿は多くの武士に尊敬されると同時に、功臣としてのあり方を考えさせたことでしょう。