宇喜多秀家は、下克上を起こして戦国大名となった宇喜田家の大名最後の当主で、豊臣政権では豊臣秀吉に重宝されて五大老の一人になったのですが、関ヶ原の戦いで敗北してからは逃亡し、八丈島への流刑となりました。
一生涯の中で栄華と衰退を味わった宇喜多秀家は、どのような人物だったのかを紹介します。
宇喜多秀家の生涯
安土桃山時代の1572年に、備前岡山城主であった宇喜田直家の次男として秀家が生まれました。
ちなみに、一般的には宇喜多秀家と呼ばれていますが、実際に宇喜多の名字を使っていたという記録はなく、仮名の八郎や羽柴秀家、豊臣秀家とも呼ばれていました。
1581年に父の直家が病死したため家督を継ぎ、当時従属していた織田信長から本領を安堵されていました。
信長に命じられて中国に攻め込んだ羽柴秀吉の軍に入り、備中高松城攻めに加わっています。
当時はまだ秀家が幼かったため、実際に代理として軍の指揮をとっていたのは、叔父の忠家でした。
秀家は、重臣に補佐されて領国を治めます。
11歳の時に信長が死去したため、秀吉は毛利輝元と和睦し、秀家は備中東部から美作・備前を領有することになり、大名となります。
元服の際は、秀吉から一字をもらい、秀家と名を改めます。
前田利家の娘であり秀吉の養女である豪姫を正室に迎え、外様ではあるものの秀吉の一門衆として扱われるようになりました。
1584年から1587年にかけては、小牧・長久手の戦い、紀州討伐、阿波戦線、九州征伐の日向戦線と、多くの戦に参加しています。
1587年には、豊臣秀吉から豊臣姓、並びに羽柴氏を与えられました。
1590年の小田原征伐にも参加して、豊臣政権を支えました。
そして、1592年には大将として、朝鮮に渡海し文禄の役にも参戦しています。
以降も様々な戦に参戦し、1598年には秀吉によって五大老の1人に任じられたものの、同年に秀吉は亡くなってしまいました。
さらに前田利家も1599年に亡くなり、関ヶ原の戦いが始まります。
秀家は、西軍の主力として最大の兵力で参戦したのですが、同門の小早川が東軍に参戦し、宇喜多隊は負けてしまいました。
秀家は、戦いの後伊吹山中に逃亡し、矢野五右衛門に40日匿われます。
以降は京に潜伏して再び逃亡、薩摩国へと落ち延びて匿われていたのですが、島津氏が匿っているといううわさが広まったことで島津忠垣が捕らえ、家康に引き渡されます。
死罪は免れたものの、駿河国に幽閉されて1606年に同地では史上初の流人となり、八丈島へと配流されます。
10年後には刑が解かれて、前田利常が10万石を分けるから大名に戻るよう誘いましたが、秀家は断って八丈島に残ったといわれています。
1655年に、享年84で死去しました。
宇喜多秀家のエピソード
宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いまでは我が世の春を謳歌していたのですが、関ヶ原の戦いからは一変して逃亡者、さらには罪人となります。
宇喜多秀家の特徴的なエピソードについて、解説します。
宇喜多秀家は、徳川家康や前田利家、毛利輝元、小早川隆景とともに豊臣政権下で五大老を務めていました。
ちなみに、小早川隆景は途中で没し、上杉景勝に代わっています。
一方、徳川政権では五奉行という政務を行う機関もありました。
五奉行は、石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家が務めていました。
豊臣秀吉の遺言書には、五大老・五奉行制についても丁寧に申し渡されていました。
遺言書で五大老と五奉行の役割について細かに記されていたのですが、宇喜多秀家だけが他とは違う内容を記されていたのです。
秀家は、幼少期から秀吉に取り立てられていたので、秀頼に対しても避けられない義理があるため、五大老であるとともに五奉行も務めてほしいと書かれていました。
ただし、五奉行に秀家の名前が連なることはありませんでした。
ちなみに、五奉行とはいっても五大老とは違って明確に5人だけに限定されているわけではなく、6人になっていたこともあるとされています。
また、宇喜多秀家は八丈島に流されてから50年を過ごしましたが、以降の子孫も江戸時代265年間は島から出ることを禁じられていました。
宇喜多家は宇喜多一類と呼ばれていて、生まれながらに罪人であることが定められていたのです。
明治時代になってから、ようやく出ることを許されたのですが、長い期間を過ごしたことで八丈島は流刑地ではなく、大切な故郷となっていたため、島から出て再び戻る人もいました。
宇喜多秀家の子孫は、現代になってもまだ八丈島に住んでいます。
島では浮田久福と改名していた宇喜多秀家は、死後島内で休福大明神として祀られており、子孫はお墓を守って暮らしています。
まとめ
人生の前半を豊臣秀吉に従って活躍し、重用されていた宇喜多秀家ですが、豊臣秀吉が死去した後は関ヶ原の戦いで家康に敗北、逃亡生活を経て八丈島に流刑となり、残る生涯を過ごすこととなりました。
秀家の子孫も、明治時代になるまでは八丈島から出ることを許されていませんでしたが、許されてからも島に戻る子孫が多いように、子孫から恨まれているということはなく、死後も現在に至るまで祀られています。