良妻賢母だった歌人「赤染衛門」

歴史


平安時代中期には、女流歌人が多く誕生しました。
その中でも赤染衛門は、紫式部や清少納言を始めとする女流歌人と交流があったとされています。
また、良妻賢母と言われるくらい優れた人物だったとされています。
今回は、女流文学を盛り上げた赤染衛門の生涯とエピソードをご紹介します。

赤染衛門の生涯

赤染衛門は、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人で、956年頃に大隅守であった赤染時用の娘として生まれます。
ですが、赤染衛門の出生には疑惑がありました。
赤染時用と結婚する前に、すでに母が子どもを宿していたそうなのです。
そのため、赤染衛門は赤染時用の子どもでなく、前夫である平兼盛と噂されました。

平兼盛は光孝天皇の遠い子孫の玄孫とされ、『拾遺和歌集』などにおける代表的な歌人の1人になります。
噂が本当だとすると、歌人としての才能に恵まれたのは平兼盛の才能を受け継いだと言えるでしょう。
著名な人物の子どもとして、ちょっとしたスキャンダルになったことに違いありません。

そしてこの疑惑は裁判へと発展し、平兼盛が親権を争います。
その結果、平兼盛は敗訴し、赤染時用の娘として正式に認められることとなりました。

このように親権争いに巻き込まれた赤染衛門ですが、976年~978年の間に大江匡衡と結婚します。
大江匡衡は文章博士という中国正史や漢文学を教える教官で、優秀な人物でした。
知識人であったことから、赤染衛門とも気が合ったのでしょう。

とても仲が良かったそうで、子どもにも恵まれ、その夫婦仲の良さから、赤染衛門は「匡衡衛門」と呼ばれました。

赤染衛門は、藤原道長の正妻の源倫子と娘の藤原彰子に仕え、この頃紫式部や和泉式部、伊勢大輔と親しい付き合いがあったとされています。
また、一条天皇の后としてのライバルであった藤原定子に仕えていた清少納言とも親しかったことから、仕事上の立場を超えて様々な人物と関わっていたことが分かります。
歌人として優れた才能がなければ、藤原彰子の文芸サロンで働けませんが、同時にコミュニケーション力も高かったため交流関係が広かったのでないでしょうか。

そんな赤染衛門は、1041年に曾孫の誕生を祝う和歌を詠んだ後、消息が絶えてしまい、その後の動向は不明です。
晩年、赤染衛門は藤原頼通に求められ自撰歌集を献上したことは知られていますが、以降どのような生活を送ったのか、いつ亡くなったのか、詳細は今も分かっていません。

赤染衛門のエピソード

赤染衛門は源倫子と藤原彰子に仕え女流文学を支えた人物の1人ですが、大江匡衡の尾張国の赴任にも同行しています。
尾張国への赴任は2度ありましたが、全てに同行し、大江匡衡を支えていたそうです。
そんな赤染衛門のエピソードは、夫のために尽くしていたことだけではありません。

息子である挙周の和泉守任官を成功させたのも、赤染衛門のおかげかもしれないのです。
実は、源倫子に送った和歌で、藤原道長の同情を誘ったのが任官に繋がったのでないかとされています。
このエピソードでは、息子の任官のチャンスを赤染衛門が掴んできたのですから、歌人として優れていることが分かります。

また、和泉守任期中、挙周が病気にかかった際、赤染衛門は住吉明神に和歌を奉納し、病気の完治を祈願したのです。
このエピソードから、1人の母として息子の病気の回復を祈った赤染衛門は、家族思いの人物だったことが分かります。

このように家族のために行動し、支えていた姿は、まさに「良妻賢母」と言えるでしょう。
平安貴族における家族の中には、夫婦仲が冷え切っているなど辛い思いをしていた人もいます。
赤染衛門の家族の様子は、それとは真逆でないでしょうか。

家族仲の良い様子が、前述のエピソードから想像することができます。
そのような関係性だからこそ、大江匡衡が亡くなった時はショックが大きかったのでしょう。
大江匡衡亡き後はすぐに出家したようで、悲しみが深かったことが想像できます。

赤染衛門は、その後子女の育成と信仰に尽くしたそうです。
もしかすると悲しい気持ちを忘れるために、没頭できることを探していたのかもしれません。

夫婦仲の良かったエピソードを知ると、晩年の赤染衛門の気持ちに共感できる女性も多いでしょう。
とはいえ、赤染衛門は和歌の世界の繋がりを断つことはありませんでした。
藤原頼通や藤原生子の歌合に出詠しており、創作活動は続けていたそうです。

創作活動も、大江匡衡が亡くなった寂しさを紛らわせたのでしょう。
赤染衛門の生涯において、文学は拠り所となっていたに違いありません。

その影響もあるのか、赤染衛門は『栄花物語』の作者でないかとも考えられています。
様々な人との交流があった赤染衛門なら、平安時代の歴史書で約200年間の時代をまとめた『栄花物語』を書き上げられるはずです。

まとめ

今回は、赤染衛門の生涯とエピソードをご紹介しました。
出生に疑惑のあった赤染衛門は歌人として優れており、源倫子、藤原彰子に仕え、紫式部などと親しい関係にありました。
大江匡衡との結婚後は、家族のサポートしており、良妻賢母としての姿をエピソードから知ることができます。
今では『栄花物語』の作者として有力視されていますが、実際のところはまだはっきりと分かっていません。

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