椿姫(お田鶴の方)は、戦国時代に生きていた女性で、死んだ夫の代わりに城を守った女傑として女城主とも呼ばれています。
浜松には、お田鶴の方を祀る椿姫観音があります。
椿姫は、どのような人生を送ったのでしょうか?
その生涯と、印象的なエピソードなどを紹介します。
椿姫(お田鶴の方)の生涯
椿姫は、鵜殿長持と今川義元の妹、もしくは義妹との間に生まれました。
生年は不明ですが、1550年頃ではないかと言われています。
そして、今川家の家臣である飯尾連龍に嫁ぎます。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られたことで、椿姫の人生も大きく変わります。
今川家家臣が離反することが増える中、1562年に飯尾連龍も徳川方に通じたのですが、それを知った今川氏真が飯尾の居城である曳馬城を攻めたのです。
ただし、この時は城を落とすことができず、氏真は一旦退きました。
しかし、連龍に対しての疑念は消えず、氏真は連龍を駿府に呼び、わずかな供を連れて向かった連龍は駿府城で氏真に謀殺されました。
ただし、連龍の死亡については様々な説があり、どれが本当なのかはわかっていません。
例えば、連龍が放火したという疑いをかけられ、氏真がそれを信じて連龍のいる曳馬城を攻めたが、防戦して撃退されたことでさらに怒りを募らせ、謀殺に至ったという説もあります。
また、その説の中にはお田鶴の方が井伊直平に勧めたお茶に毒が入っていて、それが原因で直平が死亡したという説があります。
また、駿府城に連龍が呼ばれた際にお田鶴の方も同行し、無双強力を発揮して奮戦した、というものもあります。
また、別の記録では駿河上に2人で向かい、城内で休んでいたところを氏真の兵士100名が遅い、お田鶴の方は手に粉白粉を付けて滑り止めにし、長刀をふるって敵方の侍を10名あまりも切り伏せたものの、多勢に無勢で夫婦ともども二の丸大手門に首をさらされた、とされているものもあります。
多くの記録では、連龍の死後に椿姫が曳馬城を守っていたとされています。
家康は好待遇を約束するから、徳川に味方するよう何度も死者を出したのですが、椿姫はそれを良しとせず拒絶し続けます。
その結果、城は家康に攻め込まれることとなりました。
この時の様子も記録は分かれるのですが、椿姫は数百人の部下と共に籠城したものの多勢に無勢で、数日後に落城したようです。
椿姫は侍女を従えて自ら薙刀を手に取り、最後まで勇敢に戦い続けて討ち死にしたとされています。
その様子を見た家康は椿姫を称賛し、手厚く葬りました。
また、家康の正室である築山殿は女傑の最後を憐れんで、侍女と共に葬られた祠に100本余りの椿を植え供養したことで、お田鶴の方は椿姫と呼ばれるようになりました。
享年18歳前後と、若くして勇敢な死にざまを見せた女城主として、椿姫観音が浜松に祀られています。
椿姫(お田鶴の方)のエピソード
椿姫に関しては、いくつかの逸話が残されています。
しかし、多くの記録が残っているものの統一性がないため、創作である可能性も高いでしょう。
それも踏まえたうえで、椿姫のエピソードを紹介します。
まず、椿姫が連龍と天野左衛門に対して井伊直平を裏切るように勧めた際、出陣する直平に毒茶を飲ませたというものがあります。
そのせいで直平は全身が進んで、落馬して死亡したとされています。
これは小説にも書かれていて、フグの毒を飲ませたのではないかと言われています。
この結果、井伊家では椿姫と同じく女城主として有名な井伊直虎が誕生します。
とはいえ、直平の死に様に関しては謎が多いため、諸説存在しています。
とはいえ、直平が死亡した結果連龍に味方する武将が増えたというのは確かなようです。
家康が曳馬城を攻めた際の逸話も残されていて、まず家康との交渉が決裂して曳馬城を攻められたときは、椿姫が緋縅の鎧と兜を装着して長刀を持って城門に立ち、赤袴に白い鉢巻をつけ薙刀を持った侍女や意気軒昂な数百の城兵と共に家康軍に向かい打って出て、数日後には兵が討ち死にして椿姫も18人の侍女と枕を並べて戦死したと言われています。
そして、戦死者の遺骸を埋めてたくさんの椿の木を植えた塚を作ると、数年後には一面に赤い椿の花が咲いたとされています。
それが、現在の元浜町の「椿姫観音大菩薩」の小祠とされています。
家康に決して屈しない態度については、生家である今川の恩義に最後まで生きたためとも言われており、氏真も連龍が死んだあとは妻に本領を安堵するという下知を出したとされています。
また、椿姫と連龍の間に義廣という長男が生まれた際は、嫡男の名前を書いた大凧を揚げて奉祝したことで、嫡男が生まれた時は大凧を挙げてお祝いする風習が生まれて浜松まつりとなったと言われていたものの、これは創作であるという研究が進められています。
まとめ
椿姫(お田鶴の方)は、今川氏真の従姉妹にあたる血筋で、今川家の家臣の娘であり別の家臣に嫁いだものの、その夫は氏真によって謀殺されたと言われており、さらに本人は女城主として城を守り亡くなるという、波乱万丈な人生を送りました。
統一はされていないものの多くの記録に残されているという点から、注目を集める立場であったことは間違いないでしょう。
今も椿姫観音大菩薩として祀られ、多くの人に愛されています。