久松長家(俊勝)は、戦国時代の乱世を巧みに乗り越えていった、バランス感覚に優れた武将として知られています。
また、それよりも有名なのが徳川家康の継父だということです。
久松長家は、どのような生涯を送った武将なのでしょうか?
その生涯と、どんな人物かがわかる特徴的なエピソードを紹介します。
久松長家の生涯
久松長家は、1526年に生まれています。
久松氏は、斯波家に仕える国人領主です。
しかし、戦国時代に入ってから没落していて、長家が生まれた頃には新興勢力である尾張の織田信秀に従属していました。
しかし、それと同時に松平広忠とも連携していました。
松平広忠は徳川家康の父で、水野忠政の娘である於大の方(伝通院)が家康の母です。
2人は1541年に結婚し、翌年には竹千代(のちの家康)が誕生しましたが、1544年には離縁してしまいます。
そして、家督を継いだ於大の方の兄である信元の意向で、久松長家と再婚したのです。
実は長家はその前に水野氏の女性と結婚していたのですが、死別してしまったため松平氏と水野氏のどちらにつくのか、その帰趨を定めていなかったのです。
そのため、水野氏との関係強化を目的として於大の方と再婚することとなったのです。
桶狭間の戦いで信長が今川義元を討ち取ってからは、今川家の人質となっていた元康(家康)が解放されて於大の方と再会することができました。
元康は、継父となった長家とその3人の息子を家臣として招き、3人の異母弟には松平姓を与えました。
そして三河国に戻ると、元康に従う勢力が拡大していきます。
そのせいで、今川義元の甥であり三河国の上ノ郷城城主である鵜殿長照は孤立してしまい、城を攻め落とされてしまいます。
従軍していた長家は、その城を与えられて城主となり、三河国宝飯郡西部を領することとなりました。
1563年に、元康が家康に改名した際は長家の一字をもらったと言われていますが、長家は家康を憚って俊勝と改名しています。
1572年に於大の方の兄である水野信元は、1572年に織田信長や家康に敵対していた武田勝頼に通じたという疑いをかけられ、謀反を疑われてしまいます。
信元は甥の家康を頼って潔白を訴えたのですが、家康は信長との関係を重視して信元を切るよう平岩親吉に命じ、信元は養子の信政ともども討たれてしまいます。
この時、案内役を務めたのが長家でした。
しかし、長家は信元を討つものとは知らなかったため、その仕打ちに憤慨して上ノ郷城に出奔してしまいます。
その後、長家がどうなったのかはわからず、没年も不明となっています。
久松長家のエピソード
長家は家康の継父となりましたが、それほど強く関わっていたようには見えません。
また、家の字を取った家康に遠慮して改名するなど、一歩引いた姿勢も見られます。
そんな久松長家は、どんな人物だったのでしょうか?
長家が生まれた頃の久松家はかなり没落していたのですが、長家はそんな中で生き延びるために婚姻や親戚関係を利用していました。
例えば、対立する佐治氏の娘を前妻との間の子である信俊の妻に迎え、和睦しています。
しかし、それよりも大きいのが、家康の母である於大の方と再婚して家康の継父となったことでしょう。
2人の間には3男3女が生まれたのですが、その3人の息子は家康の異母弟として松平姓を与えられ、家康の家臣となっています。
家康が力を付けてきた頃は、その継父として権勢を得ようとするのではなく、家康と程よい距離を保っていました。
そのうえで良好な関係を保つ、バランス感覚に優れた人物だったのです。
家康がかつて元康という名前だったのは、今川義元の人質となっていたことが原因です。
今川家に従うという意向を示すためだったのですが、人質から解放されたことでその必要がなくなったため、「元」の字を捨てるために家康へと改名したのです。
しかし、せっかく家の字をもらった継父は、家康に遠慮して俊勝へと改名してしまいます。
家の字は家康以降も、徳川将軍の多くに引き継がれていきました。
また、義理の兄である水野信元が冤罪で家康に討たれた時、それに憤慨して出奔するという義理に篤い面も見られます。
何より、おかしいことには断固として抗議する姿勢も見られます。
その後の足取りは不明なのですが、晩年には三河国で起こった一向宗の信徒たちによる三河国一向一揆に対して、一向宗寺院が三河国に戻ることができるよう戦後処理に尽力していたと言われています。
久松長家は、それほど優れた武将ではないと言われています。
しかし、婚姻で縁をつなげるなど、バランス感覚に優れた人物であり、成功したと言えるでしょう。
まとめ
家康の継父である久松長家は、没落していた久松家を支えて成功に導いた人物です。
政治面では、非常に優れた人物と言えるでしょう。
その一方で情に篤い一面もあり、非常に好感が持てる人物像ではないかと思います。
最後ははっきりとしないものの、家康に怒りを覚えながらもフォローしていくという一面もあり、息子も家康の家臣となっていたことから関係性は悪くなかったと思われます。