志苔館の歴史と特徴

歴史

志苔館は、日本城郭協会が発表した「続百名城」の1番に選定された、北海道函館市の城館跡です。
小林氏が築いた、道南十二館の1つにも数えられている貴重な城館であり、かなり古くからあるのですが、志苔館にはどのような歴史があるのでしょうか?
その特徴とあわせて、解説します。

志苔館の歴史

志苔館は、築城年は不明ですが15世紀には存在し、1457年に陥落した城館です。
かつて、和人とアイヌとの争いがあり、アイヌに10の館が攻め滅ぼされたのですが、その中でも最初に陥落したと言われています。

15世紀中頃に、和人とアイヌとの間には取引がありました。
しかし、和人の鍛冶師がアイヌの若者と取引をしていた際にトラブルが起こり、それが殺人に発展したことでアイヌ側の不満が爆発しました。

不満が爆発した取引は鉄に関するものだったのですが、それ以外にも主要な商品である鮭と米の交換比率にも常に不満を抱いていたことも影響しました。
当時、当時の相場で現在の価値に換算すると40万円となる鮭100匹との交換レートは、2万4千円相当の米60キログラムだったのです。

このような不平等な取引となっていた上に殺人が起こったことをきっかけにアイヌは大いに怒り、勢いのままに志苔館へと攻め入りました。
お互いに犠牲者を出しながらも志苔館は陥落し、アイヌが勝利します。

この時、城を落とした際はコシャマインという人物がリーダーとなっていて、12館のうち10館を陥落させています。
残ったのは、上ノ国町にある花沢館と北斗市にある茂別館だけでした。

戦は1年も続いたのですが、花沢館城主の蠣崎秀繁の武将である武田信広によってコシャマイン父子は討たれてしまい、大きな犠牲を出しながらも和人の勝利で戦いは幕を閉じます。

志苔館の悲劇は、これに留まりません。
1512年、再びアイヌとの間に争いが起こり、ショヤコウジ兄弟が武田信広の子である蠣崎光広と戦を起こし、そこに志苔館が巻き込まれて落城してしまいます。

蠣崎光広はショヤコウジ兄弟に和睦を申し入れて酒宴を開き、兄弟を招いたのですが、その席で兄弟を殺害してしまいます。
そうして、戦は終わったのです。

その後、蠣崎氏は安東氏から独立して蝦夷地の領主となり、アイヌと交渉して取り決めを造り、アイヌの指導者には交易の利権を分け与えるという形で交渉し、アイヌとの戦に幕を下ろしました。

蠣崎氏は松前氏と名前を改めて、江戸時代には松前藩を立藩し、志苔館はその役目を終えて廃館となり、小林氏は松前氏の配下となりました。
その後、1934年には国の史跡に指定されています。

函館市教育委員会が1983年から1985年にかけて発掘調査を行い、出土しました。
土塁で囲まれていて、東西に70~80メートル、南北に50~60メートルほどあり、免責はおよそ4,100平方メートルになっています。
傾斜が緩やかな平坦地にあり、北側と西側には濠があり西側は二重濠になっています。

また、15世紀前半の珠洲焼きや白磁、青磁、越前焼、古瀬戸等様々な陶磁器が出土しています。
この時期は、コシャマインの戦いの時期とも矛盾しません。

また、1968年には志苔館の南西100メートル地点で、埋納されたと思われる越前焼や珠洲焼きの大甕3個から93種類、計38万枚余りの銅銭が出土しています。
その大半は中国のもので、一か所から見つかった銅銭としては最大級の規模です。

この銅銭は、「北海道志海苔中世遺構出土金」として国の重要文化財に指定されて、市立函館博物館に所蔵されています。
また、2つの支館があったことも分かっています。

志苔館の特徴

志苔館の特徴として、堀の形状があります。
志苔館の堀は二重になった薬研堀になっていて、そこに木橋をかけて門を通過し、中に入るようになっていたのです。
これは、城内と城外それぞれにありました。

しかし、城が改修されるとその堀も造り替えられていきます。
城外側はそのままですが、城内川の堀は薬研堀から箱堀に代わり、橋も木から土に造り替えられました。

北と南には土塁が置かれ、高さは北側が4メートル超だったのに対して南側は1メートルから1.5メートルほどであり、西と東は土塁が途切れて出入り口になっています。
また、北側と西側には空堀があり、どちらも幅は5~10メートルほど、深さは最大3.5メートルほどとなっています。

また、発掘の結果建物跡が3つあることもわかっています。
それぞれ柱間寸法が7尺と6.5尺基本単位の掘立柱建物と、6尺基本単位の礎石建物です。
そのため、建物は大きく3期に分けられていることがわかるのです。

最初の建物は14世紀末から15世紀初頭頃で、2つ目は15世紀中頃でコシャマインの戦いの後のものと思われます。
3つ目は16世紀以降のもので、ショヤコウジの戦いがあった頃なので、その時に攻め落とされて再び立て直したものと思われます。

まとめ

志苔館には、悲しいアイヌとの争いの歴史が残されています。
海を渡った和人は、アイヌと交流を持ったものの正統な取引をしなかったため、アイヌの人々の怒りをかってしまい激しい争いが起こったのです。
アイヌとの争いで、真っ先に攻められたのが志苔館です。
志苔館跡の土塁や堀などからも、激しい争いがあったことがわかります。
かつての蝦夷地の歴史に興味がある方は、是非一度見てみることをおすすめします。

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