徳川家康の右腕だった知将「石川数正」

歴史

徳川家康の家臣の中でも、西三河の家老の地位を得るほど厚い信頼のある石川数正。

徳川家康の右腕として、数々の知略を発揮します。

しかし、後に石川数正は徳川家康の下から出奔してしまうのです。

酒井忠次と共に徳川家康の「竹馬の友」と呼ばれた、石川数正の生涯やエピソードをお話しします。

石川数正の生涯

石川数正は、1533年三河国の石川右馬允康正の子として生まれました。

そして、徳川家康が今川家の人質になっていた時から近侍として仕え、一緒に幼少期を過ごした家臣の一人でもありました。

1560年桶狭間の戦いの後、徳川家康独立した際、石川数正は今川氏真との交渉役を担います。

そこで、今川家の人質だった徳川家康の長男徳川信康と正室の築山殿を取り戻す大役を見事に果たしました。

石川数正の交渉役としての手腕が発揮されるのは、ここだけではありません。

1562年に織田信長と徳川家康が結んだ清州同盟の成立にも、石川数正は交渉役として活躍し、軍事的な関係を結ぶことに力を尽くしました。

さらに翌年、1563年に起こった三河一向一揆で石川数正は、徳川家康の味方につきました。

この時、父の石川康正は徳川家康を裏切ってしまいますが、石川数正は浄土宗に改宗してまで主君に尽くしたと言われています。

余談ですが、石川家の家督は石川数正でなく、徳川家康の命で叔父が引き継いでいます。

これには、徳川家康と叔父が従兄妹であることが関係していますが、幼少期からの関係性から石川数正は重臣の地位に就くことになります。

その後、1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦い、1575年の長篠の戦いにも出陣し、武功を重ねます。

1582年の本能寺の変で織田信長が亡くなり、家臣であった豊臣秀吉が台頭すると、徳川家康から交渉役を命じられます。

豊臣秀吉の交渉役を命じられたこともあって、1584年の小牧・長久手の戦いにも参戦しました。

この戦は最終的に和睦で終わることになりますが、その提案をしたのはなんと石川数正でした。

また一つの戦を終わらせるのに、活躍したのです。

ここまで順風満帆に徳川家康のもとで活躍してきた石川数正ですが、ここから人生の流れが変わります。

1585年11月13日、徳川家康の下から突然出奔したのです。

向かった先は豊臣秀吉のところで、そのまま家臣として仕えました。

出奔から年月が経った1593年、石川数正は61歳で生涯を終えました。

石川数正のエピソード

石川数正の最大の謎は、なぜ徳川家康の下に出奔したのか。

出奔理由は、未だに判明していません。

これに関して、2つの説をご紹介しましょう。

1つは、徳川家康と豊臣秀吉の板挟みの結果、疲弊してしまい豊臣秀吉の下へ出奔してしまった説です。

結果として小牧・長久手の戦いは和睦で終わりましたが、当然、豊臣秀吉との直接対決を望んだ家臣もいました。

和睦を結んでしまうと主従関係ができてしまい、徳川家康にとって不利な状況になりかねません。

他の家臣たちは、それを心配したのです。

そしてその意見に対して、石川数正は直接対決を制止していた派閥でした。

反対意見を述べた石川数正は孤立したこと、さらに当時豊臣秀吉との連絡役の往復もあり精神的に疲弊してしまったことで出奔したのでないかと考えられています。

それに対して、もう1つは徳川家康の命令を受けて、あえて豊臣秀吉の下へ出奔したという説です。

小牧・長久手の戦いの際に豊臣秀吉の戦での実力を知ったことから、今後の勢力バランスに影響があると考えたのでしょう。

また、あえて家臣を送らせることで、敵側から徳川家康をサポートしようと考えたのかもしれません。

この説も詳しい事情が不明なため、可能性の域に留まっていますが、石川数正の知将としての実力を考えると完全に否定できません。

また、豊臣秀吉の人となりも出奔に影響を及ぼしたのでないかと考えられています。

豊臣秀吉には、良くも悪くも気に入った戦国武将を勧誘する癖がありました。

それは、敵側で戦っていた戦国武将に対しても同様です。

素晴らしいと思った戦国武将がいると、是非自分の下で働いてほしいと声をかけてしまうのです。

それは、1人2人の話ではありません。

徳川家康の家臣では、本多忠勝が勧誘された戦国武将の1人にあたります。

とはいえ、勧誘されたから簡単に主君を変えるような人物だと考えていいでしょうか?

その根拠として、石川数正は三河一向一揆の際、改宗してでも徳川家康から離れなかったことが挙げられます。

自分のことよりも徳川家康に忠義を尽くすことを選択していますから、単純な理由で出奔したとは考えにくいです。

どんなに優秀な人物でも、悩みが全くなかったとは思えません。

生涯2人の主君に仕えた石川数正は優秀だった一方で、他の家臣と対立したことがきかっけで深い孤独を抱えていたことでしょう。

影のある部分も、石川数正の魅力だと言えます。

これからも謎の多い戦国武将として、語り継がれていくことでしょう。

まとめ

今回は、石川数正の生涯とエピソードについてお話ししました。

徳川家康の幼少期から支えていた石川数正は、主君への忠義をどんな時も優先して行動してきました。

そのため豊臣秀吉の下へ出奔した理由も、勧誘されたという単純な理由でなく、きちんとした理由があったことでしょう。

2人の主君に仕えた戦国武将の謎は、益々深まるばかりです。

タイトルとURLをコピーしました