徳川家康から子を託された「平岩親吉」

歴史

徳川家康の人質時代から付き従ってきた武将は多くいますが、その中には「親友」と呼ばれた人物がいます。

それが、平岩親吉。

平岩親吉は、徳川家康が自分の子を養子に出した唯一の人物としても知られています。

ここからは、平岩親吉の生涯とエピソードについてご紹介しましょう。

平岩親吉の生涯

平岩親吉は、1542年に三河国額田郡坂崎村で平岩親重の次男として生まれます。

徳川家康と同い年だったことから、人質時代から付き従います。

1558年の初陣後は、三河統一戦や遠江平定戦などで戦功をあげ、徳川家康の嫡男であった松平信康の元服後は教育係の傅役として補佐に徹しました。

嫡男の教育係を命じられたのは、信頼のおける部下である証拠です。

松平信康に仕え暫く経った後、1579年に織田信長との関係を揺らがす大事件が起こり、平岩親吉も事態の収拾に奔走しました。

それは、織田信長から松平信康の切腹要求が出されたことです。

切腹要求に対し、平岩親吉は自分の首を差し出すことで解決しようと考えますが、処断を防げないまま事態が終息します。

その結果、自ら謹慎することになりますが、後に徳川家康に許され、家臣として復帰を果たしました。

とはいえ、松平信康が亡くなったのは事実ですから、悔いが残っていたことでしょう。

この事件は、他の家臣にとっても後味の悪い結果しか残りませんでした。

特に事件に深く関わっていた人物でもあったため、徳川家康は心配し、松平信康の家臣の面倒を見るように伝えたというエピソードも残っています。

徳川家康もまた、他の方法を取れず息子を手にかけなければならなかったことから、どうすることもできなかった思いに共感できたのかもしれません。

1582年の織田信長の死後は、徳川家康の命で甲府城の築城を開始します。

その後、1590年に起こった小田原遠征にも従い、戦功をあげました。

1603年には駿府にいるまだ幼い9男の徳川義直の守役に命じられると、代理として甲斐統治を行います。

また、1607年に徳川義直が尾張藩主に転じた際には、附家老として尾張に共に移り、藩政を執り行いました。

1611年、平岩親吉は築城途中の名古屋城二の丸御殿で亡くなり、70歳で生涯を閉じました。

幼少期から付き従っていた平岩親吉は、最終的に徳川家康だけでなく、その息子のサポートを任せられるくらいの関係になっていたのです。

これは「親友」だからこそ、任せることができたと言えるでしょう。

平岩親吉のエピソード

徳川家康の家臣には、家督を継ぐ者がおり代々徳川氏に仕えていったり、過去の功績から家が存続したりしたエピソードが残っています。

しかしながら、平岩親吉は違いました。

平岩親吉が亡くなった後、家督を継ぐ者がおらず、そのまま家が断絶してしまったのです。

親友とまで言われた家臣の家の最期があっけない形になってしまうとは、誰も思わないでしょう。

家が断絶した理由は、前述したとおり家督を継ぐ者がいないためですが、何も対策を講じなかったわけではありません。

とりわけ、徳川家康は平岩家が断絶してしまうのを防ぐために、策を講じていたのです。

それが、自分の息子を養子に出した理由です。

一説によると、徳川家康は自分の8男の松平仙千代、または異母兄を養子に出したそうです。

ですが、8男の場合は養子に出した後、わずか5歳という幼さで亡くなってしまったため、平岩家を継ぐことが叶いませんでした。

8男の存在が、養子に出した唯一の子だと言われています。

8男が亡くなってしまった後も、徳川家康は諦めませんでした。

市井の噂から、平岩親吉との間に生まれた可能性のある子どもを探し出したのです。

平岩家の断絶を防ぐために、たとえ噂であっても可能性のある情報にかけた徳川家康の気持ちは容易に想像できます。

徳川家康は噂の子どもを発見した後、平岩家の所領を継がせるつもりでいましたが、話は簡単にいきませんでした。

噂の子どもの母親が、平岩親吉の子どもでないと固く辞退し続けたのです。

母親は、急に武将、大名の子どもだと言われ、とても驚いたことでしょう。

ここで認めてしまうと、もしかしたら大変な人生を送ることになると思ったのかもしれません。

拒否した理由の詳細は不明ですが、結果としては子どもを平岩家に迎えることができませんでした。

この後も、養子を迎えることがなかったため、徳川家康は非常に悔しい思いを抱いていたことでしょう。

話は変わりますが、平岩親吉は形がどうであれ、家臣の中でも息子を託されていた人物だと言えます。

嫡男の松平信康、9男の徳川義直、8男の松平仙千代です。

それぞれ違った運命を辿りましたが、3人の息子と関わっていた家臣というのは、平岩親吉の他にいません。

信頼度の高さやこれまでの恩から、死後に平岩親吉の兄弟は高い給料のもと、尾張藩士に取り立てられたそうです。

まとめ

ここでは、平岩親吉の生涯とエピソードについてご紹介しました。

徳川家康と同い年で人質時代から仕えており、苦楽を共にしてきた人物でもあります。

そんな平岩家が平岩親吉の代で断絶してしまうのを防ぐため、徳川家康は自分の子を養子に出したり、噂から子どもを見つけ出したりしましたが、いずれも失敗に終わります。

徳川家康の3人の息子と関わりがあることから、まさに「託された」と言っても過言でないでしょう。

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