側室として選ばれる基準は、実に様々です。
主君に何らかの形で見初められた者もいれば、時に家同士の都合で側室になった者も珍しくありません。
お葉の場合は、どのような経緯で側室になったのでしょうか?
今回は、お葉の生涯とエピソードについてご紹介します。
お葉の生涯
お葉の生涯について詳細なことは分かっていませんが、柏原鵜殿長忠の娘として徳川家康の側室になったことが分かっています。
父は柏原城主鵜殿氏に従っていた加藤氏であると考えられていますが、もとは信濃国出身の人物でした。
父の代に三河国に移り加藤氏を受け継いでおり、定期市の運営を担当していたそうです。
その一方で、父が仕えていた柏原城主鵜殿氏は、1562年に上ノ郷鵜殿氏が徳川家康に攻め滅ぼされたことにより、徳川氏に従うようになりました。
お葉が側室になる前までに、自身を取り巻く環境が変化し、徳川氏に仕える環境が整っていったのです。
そのため、お葉が側室になったのは人質的な意味もあるのでないかと考えられています。
側室になった後、1565年に徳川家康の次女となる督姫が生まれます。
督姫は、織田信長が亡くなった後に北条氏直に嫁ぎ、夫が亡くなった後は豊臣秀吉の世話により池田輝政に嫁ぐことになる運命を辿ります。
徳川家康が1590年に江戸城に移ることになると、お葉もそれに従い、行動を共にしました。
数々の戦を経て江戸幕府が開かれた後の1606年、伏見城でお葉は急死してしまいます。
徳川家康の子を産み、側室としての役割を果たしたお葉ですが、ここで少し興味深い話が残っています。
それは、お葉が亡くなった同日に、徳川家康の家臣の榊原康政も死去したことです。
一見すると、この出来事は偶然だと思うでしょう。
しかし、2人には共通点があるのです。
先程少し述べましたが、お葉の娘の督姫は池田輝政の妻になったため、妻の母という立場になります。
そして榊原康政は、池田輝政の長男の妻の父であったのです。
つまり、2人は池田氏の縁者であり、全くの赤の他人同士ではありませんでした。
このような偶然は、果たしてあるでしょうか?
縁者という繋がりがあったからこそ、起こった出来事なのかもしれません。
上記の事情が関連しているか明確ではありませんが、お葉の葬式は徳川家康の命により、娘の夫である池田輝政が行ったそうです。
お葉のエピソード
徳川家康と付き合いの長いお葉は、岡崎城時代から共にありました。
そのため、徳川家康の最初の側室とも言われています。
西郡局と言われている由来は、上ノ郷城の別名が「西之郡之城」であり、それに基づいたものだと考えられています。
お葉のことが分かるエピソードの一つに、日蓮宗の熱心な信者だったことが挙げられます。
三河一向一揆の出来事から、宗教には手痛い思いをさせられた徳川家康でしたが、家族の信仰に関して制限を設けることはしませんでした。
よって、側室になってからも信仰を続けていたのです。
お葉が側室入りした背景には、徳川氏への忠誠を誓うための道具的な意味合いがありましたが、信仰などある程度生活面を自由にさせていた様子が分かります。
ところで、いくら忠誠の証とはいえ、娘を側室に出すというのは親としてどうなのでしょうか?
確かに、当時の家同士の関係や情勢を考えると、仕方がないことだったのかもしれません。
お葉の本心は分かりませんが、家の事情を考えると喜ばしい出来事でなかったはずです。
ですが、岡崎城時代から存在した側室と考えると、次のような見方もできるでしょう。
それは、徳川家康の苦難を正室と同じように見てきたことです。
側室の中には、徳川家康が年老いてから側室になった者もいますが、苦労した時代も共にしていたとなると数は多くありません。
女性同士の争いもあったと思いますが、長い時間徳川家康と共にいたという点においては正室に負けない存在になっていたと言えるでしょう。
徳川家康との唯一の子どもである督姫は、再婚をしたものの幸せな人生を送ったと言われています。
子どもが幸せな人生を送れたことで、親としても安心できたことでしょう。
お葉も最初の出会いは好ましい状況ではありませんでしたが、側室としては比較的快く過ごせたと考えられます。
ここで綺麗に話をまとめたいところですが、一番お葉が幸せだったのは岡崎城にいた時代でないかという疑問もあります。
なぜなら、この後から側室がどんどん増えていったからです。
他の側室と関わる時間が多くなると、当然自分と関わる時間が少なくなります。
側室の立場になった女性たち全員が幸せだったとは言い難いですが、少しでも幸せな時間があったことは当時の女性にとって救いだったのでないでしょうか?
側室に対する人生の評価は、一言で言い表せません。
まとめ
今回は、お葉の生涯とエピソードについてご紹介しました。
徳川家康の側室の中で最も古い側室だったお葉は、西郡局と呼ばれ、督姫を産みました。
岡崎城時代から側室として過ごし、江戸城に徳川家康が移る時も行動を共にしたため、正室と同じくらい、それ以上の存在であったと言うこともできます。
側室が増えるにつれ、岡崎城時代のような立場から離れてしまいますが、幸せな時間があったことは間違いありません。