藤原道長との結婚を妻に相談したことは、源雅信の代表的なエピソードになります。
ところで、源雅信は貴族社会の中でどのような人生を送ったのでしょうか?
そもそも、どうして藤原道長は源雅信の娘倫子と結婚しようと考えたのでしょうか?
ここでは、源雅信の生涯とエピソードについてお話します。
源雅信の生涯
源雅信は、920年に宇多源氏、式部卿、敦実親王の3男として生まれます。
父の敦実親王は宇多天皇の第8皇子にあたるため、源雅信のルーツを辿ると皇族と繋がりがあるのです。
そんな源雅信は、936年に皇族の身分を離れ臣下の籍に降り、公家に入ることになりました。
一貴族としてスタートした源雅信は、969年に円融天皇が即位すると急速に昇進し、977年には右大臣になります。
そして同年に関白の藤原兼通が亡くなると、翌年978年に源雅信は左大臣を任じることになりました。
右大臣になるまでの出世スピードも速かったですが、そこからさらに出世したのにはある理由があります。
それは、当時の天皇、円融天皇の思惑でした。
円融天皇は親政を実現するため、源雅信を公卿の中でも一番位の高い職に就かせたのです。
そもそも源雅信出世のスピードが速かったのも、円融天皇の信任を得ていたことにあったので、高い地位を得ることは自明の理でした。
また、天皇の信任が得られるくらい、源雅信の仕事ぶりは非常に真面目だったことから、実力が評価されての出世でもあります。
ちなみに源雅信が年老いて足腰の不調を訴えた時でも、変わらずきちんと仕事をし続けていたため、この評価は変わりませんでした。
源雅信が活躍する体制は、花山天皇、一条天皇の即位後だけでなく、藤原兼家の摂政就任後も続いたそうです。
長い間同じ体制が続いていたことから、他の天皇や貴族からの厚い信頼があったことが分かります。
その後、991年に弟の源重信が右大臣に就任します。
それから源雅信が亡くなるまで、兄弟で左右大臣を務め、天皇を支えることになります。
しかし、兄弟で協力し合いながら政治をする時間は長くありませんでした。
993年に病気のため許しを得ないまま辞官し、出家した数日後に亡くなります。
この時、源雅信は74歳でした。
源雅信のエピソード
源雅信の有名なエピソードは、やはり娘倫子を天皇の后にしようと考えていたことです。
結局のところ、藤原道長と結婚しましたが、その時この選択が正しかったのか源雅信は分かりませんでした。
結婚の申し出があった時点での藤原道長の評価は、ぱっとしない貴族でした。
そのような人物がすぐに功績を上げて出世するという事例は、中々ありません。
源雅信も妻穆子に相談したくらいですから、判断に迷ってしまうのは当然のことでしょう。
後に病気のため亡くなってしまいますが、その2年後に藤原道長は出世し、穆子の判断が正しかったことを世間は知ることとなります。
もし源雅信が少しでも長く生きていたなら、藤原道長が出世したことに驚くでしょう。
結果として、源雅信が望んでいた倫子の幸せな結婚が実現できたのです。
もしかすると、穆子に対し感謝していたかもしれません。
ところで、源雅信が天皇との結婚を画策していた背景には、花山天皇、一条天皇、三条天皇が皇太子時代に東宮傅に務めていたことが関係しています。
東宮傅とは皇太子付きの教育官のことで、源雅信は仕事柄皇太子時代の天皇たちと繋がりがあったのです。
役職的な繋がりがあるため、倫子を后にすることは他の貴族たちよりも難しくありません。
このように倫子のことを思ったエピソードのある源雅信ですが、本人の人となりが分かるエピソードもあります。
それは、和歌や蹴鞠、有職故実などに通じており、多才な人物だったことです。
特に父敦実親王が琵琶の名手だったことから、源雅信もそれに優れており、後に朗詠の祖と言われるくらいだったそうです。
父親としての側面しか今まで見てきませんでしたが、貴族社会において必要なスキルも十分なくらい持ち合わせていたのです。
それに加えて、仕事ぶりが真面目なら、周囲も文句を言うことはありません。
しかしながら、真面目過ぎると評価していた人物もいました。
それは、村上天皇です。
源雅信は村上天皇の側で仕えていた時、仕事中は公務のことしか口にしないと評価され、敬遠されていたそうです。
もしかすると、村上天皇は少し雑談をしながら、楽しく源雅信と仕事をしたかったのかもしれません。
確かに、現代においてもコミュニケーションを取りながら、楽しく仕事をしたいという人がいます。
ですが、源雅信はそのタイプではありませんでした。
仕事とそうでない時のメリハリがしっかりとしていたのでしょう。
2つのエピソードを通して、源雅信の公的な場面と私的な場面の印象の違いを知ることができます。
まとめ
ここでは、源雅信の生涯とエピソードについてお話ししました。
臣下の籍に降り、一貴族としてスタートした源雅信は円融天皇の思惑により昇進し、官位の高い職に就きました。
倫子が藤原道長と結婚し、この選択が正しかったことを知る前に亡くなってしまいますが、生きていたなら穆子に感謝したはずです。
仕事に対して真面目過ぎる一面を持っていた源雅信は、誰よりも家族の幸せを一番に考えていたことでしょう。