高い地位に就くことができても、自分の思い通りに政治ができなかった人もいます。
藤原頼忠は関白から太政大臣になりますが、思ったような結果が残せず、栄華を掴むことができませんでした。
さらに政争に敗れてしまい、子孫も繁栄のチャンスを掴めなかったそうです。
ここでは、藤原頼忠の生涯とエピソードをご紹介します。
藤原頼忠の生涯
藤原頼忠は、924年に藤原北家小野宮流の藤原実頼と藤原時平の娘の次男として生まれます。
始め藤原頼忠は、母方の叔父である藤原保忠の養子になりましたが、養父と兄が早世したため、小野宮流の嫡男になります。
父の藤原実頼は冷泉天皇の関白と円融天皇の摂政を務めていましたが、他の摂政や関白の就任者と違い、自分の思うような政治ができませんでした。
なぜなら関白や摂政に就けたのも、冷泉・円融天皇の外祖父が自身の弟藤原師輔であり、彼が没していたために就任したからです。
さて藤原頼忠ですが、941年に従五位下に叙爵し、942年に侍従に任ぜられると順調に昇進していきます。
971年には、正三位・右大臣に叙任されるほどでした。
そして藤原実頼の後任で摂政を務めていた藤原伊尹が急死した際には、関白候補の1人として藤原頼忠の名が挙がったのです。
結果として関白は藤原兼通になりましたが、藤原頼忠とは懇意で政治についてもよく相談するほどの仲だったそうです。
それは、藤原頼忠を一上に任命するほどです。
また、2人は従兄弟同士だったので、様々な悩みを話しやすかったのでしょう。
その後、重病のため危篤となった藤原兼通は、関白職を急いで藤原頼忠に譲りました。
仲の悪かった藤原兼家が関白になることを防ぐための任命でしたが、藤原頼忠にはある不安がありました。
それは天皇との外戚関係がないことで、その結果、政治的基盤が不安定になる事態を招いてしまったのです。
例えば、娘の尊子を入内させ中宮になったのですが、円融天皇の皇子を産むことが叶いませんでした。
一方で藤原兼家の娘の詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を儲けたため、地位と政治権力のバランスが取りにくい事態に陥ってしまったのです。
その状況を変えることは、残念ながらできませんでした。
寛和の変後、一条天皇が即位すると、外祖父の藤原兼家の権力が確固たるものになります。
地位があったとしても、権力を握れないことが明らかになり、藤原頼忠は失望落胆してしまいます。
関白を辞した後、989年に藤原頼忠は66歳で薨じました。
藤原頼忠のエピソード
経緯はどうであれ、藤原頼忠は太政大臣にまで昇りつめましたが、藤原兼道と藤原兼家兄弟の争いに巻き込まれてしまった人物でもあります。
元々不仲だった彼等ですが、決定的になったのは兄藤原伊尹の薨去後、後任争いが起こった時になります。
『大鏡』によると、この争いは円融天皇の生母で同腹姉妹であった藤原安子の「兄弟順に関白に就任させる」遺言で終結したのです。
しかしながら、後に危篤状態になった際見舞いに来ず、自分を次の関白にと天皇に頼みに行った藤原兼家の行動に、藤原道兼は怒り心頭だったそうです。
そのような争いの中で関白を譲られたと考えると、藤原頼忠の苦労は計り知れません。
ですが、昇進のチャンスを掴めることに変わりありませんから、もしかすると状況を上手く利用しようと考えていたかもしれません。
そんな藤原頼忠ですが、彼の有能さが分かるエピソードも残っています。
それは、一上を任じられた際に行った儀式を問題なく順調に進めていたということです。
一上は公卿の中でも最高の地位にある大臣が務めており、一般的に左大臣が職務を行っていました。
この時叙位の対象者が多かったため、長時間にわたる儀式だったにも関わらず、藤原頼忠は滞りなく行ったのです。
大規模な儀式をトラブルなく終えたことは、藤原頼忠の職務遂行能力の高さを証明していることになります。
関白の地位を譲られた際も、単に従兄弟同士だからという理由でなく、仕事面において信頼できることが分かっていたため任せられたのでないでしょうか。
ところで、藤原兼通と懇意だったことから、兄弟が不仲だったことは藤原頼忠も知っていたはずです。
先に昇進した藤原頼忠は、藤原兼家に対しどう思っていたのでしょうか。
もしかすると、藤原兼家との関係はそこまで悪くなかったかもしれません。
ですが、後に藤原兼家が昇進していきますから、悔しく思うこともあったでしょう。
実は花山天皇の時代にも自分の娘を入内させたのですが、皇子が生まれず、チャンスを得ることができませんでした。
運が巡ってきたのが、短い時間だったと表現することができます。
藤原兼家の権力に対する執念に負けてしまったと、言っても過言ではありません。
時代が藤原兼家に向いているのを、聡い藤原頼忠は強く感じざるを得なかったのでしょう。
まとめ
ここでは、藤原頼忠の生涯とエピソードをご紹介しました。
藤原頼忠は、藤原伊尹の急死の際に関白候補の1人として選ばれるくらい有能な人物でした。
懇意にしていた藤原兼通から関白を譲られましたが、父と同じように自分の思うような政治を実現できませんでした。
藤原兼通、兼家兄弟の政争から得たチャンスを活かしきれなかったのは、藤原頼忠も無念に思っているでしょう。