織田信長の夢を支えた「丹羽長秀」

歴史

、家臣としての関係を超えた、深いつながりのある武将がいます。
それが、丹羽長秀です。
織田信長をどのように支えてきた人物なのでしょうか?
また、本能寺の変後はどのように生きたのでしょうか?
今回は、丹羽長秀の生涯とエピソードをご紹介します。

丹羽長秀の生涯

丹羽長秀は、1535年、尾張国春日井郡児玉にて丹羽長政の次男として生まれます。
1550年より織田信長に仕え、19歳の時に梅津表の合戦で初陣すると、桶狭間の戦いにも従軍します。
また、朝倉義景の討伐にも加わったため、戦後は若狭一国を与えられ、織田家臣初の国持大名となりました。

その後も、長篠の戦いや越前一向一揆征伐などで功をあげるだけでなく、安土城普請の総奉行を務めるなど、政治的手腕も発揮します。
そして、織田家の家老の中では、柴田勝家に次ぐ2番家老の席次として、重要な立場にいました。
また、柴田勝家と共に「織田家の双璧」と言われたのです。

1582年には、織田信孝の四国派遣軍の副将と、徳川家康が大坂方面に向かうにあたっての接待役を津田信澄と共に命じられます。
ところが、出陣前に本能寺の変が起こってしまいます。
この時、丹羽長秀は織田信孝を補佐すると同時に、同じく接待役を命じられた津田信澄を共謀者として殺害しました。

なぜなら津田信澄には、明智光秀の娘が嫁いでおり、明智光秀が謀反を起こしたため、逆臣の共謀者とみなしたからです。
それから、織田信孝と共に豊臣秀吉の軍に参戦し、山崎の戦いで明智光秀を討つことができました。
織田信長の敵討ちに成功したとはいえ、宿老である丹羽長秀にはまだまだやるべきことが残っていました。

清州会議では柴田勝家に対抗して、豊臣秀吉が推していた織田信長の嫡孫である三法師(織田秀信)を、同じく宿老であった池田恒興と共に支持します。
その結果、織田家の事業継続を豊臣秀吉がすることを認めることとなり、丹羽長秀はそれをサポートする側に回ることになりました。
その影響もあり、賤ヶ岳の戦いでは、豊臣秀吉を援護しています。

ですが、賤ヶ岳の戦いから2年後に丹羽長秀は、胃癌により死去します。
しかし、死因については他の説もあります。
サナダムシによる寄生虫病(積寸白)が原因で死去したのでないかと、考えられているのです。

普段から丹羽長秀は腹の積聚に苦しんでおり、最期は苦痛に勝てず自刃した、または腹に短刀を刺し、虫を取り出したとされています。

丹羽長秀のエピソード

丹羽長秀は、織田信長と単なる主従関係であったわけではありません。
実は、織田家と丹羽家は縁戚関係にあるのです。
丹羽長秀の妻は織田信長の兄の娘である桂峯院で、嫡男の丹羽長重も織田信長の5女を娶っている関係にあります。

これだけでなく、織田信長の「長」の字の偏諱を受けていることから、主従関係を超えた親しい間柄であったと言っても過言ではありません。
実際、2代続いて織田信長の姻戚となった事例は、他家にはありませんから、ここまで親しい関係を築いたのは珍しいことです。
さらに、織田信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるほどだったため、他の家臣と比べても厚く信頼されていたのです。

また、縁戚関係にあっただけではありません。
信頼の根拠は、仕事面にもあるのです。

織田家中の風評に、「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」というものがあります。
その中の「米五郎左」は、丹羽長秀のことを表しているのです。

米は食事に欠かせない存在で、どのようなおかずにも合います
丹羽長秀も、織田信長にとって欠かせない存在であり、誰とでも上手く付き合え、家臣団を繋ぎとめる役割を持っていました。
例え話の米のように、織田家中にとって重要な存在だったことから、「米五郎左」として評判になったのです。

実際、丹羽長秀は、軍事と行政の両方を担っていました。
方面軍司令の地位は得られませんでしたが、安土城の普請奉行などの行政の仕事、補給路の確保や戦後処理など軍事の仕事をそつなくこなしていました。
これらの仕事は、一見地味なものかもしれませんが、誰かがやらないといけませんし、欠かせない仕事です。

良い評判があったからと浮かれることなく、真摯に仕事に打ち込んでいたため、織田信長も信頼を寄せていたのです。
丹羽長秀は、とても真面目な人だったのでないでしょうか。

そして、織田信長からの信頼は、行動でも示されています。
軍馬の検分をする軍事パレードの意味を持っている馬揃えを京都で行った際、丹羽長秀は先頭で入場します。
この時、織田信長の家臣である柴田勝家や明智光秀など、重臣たちもいました。

大規模なパレードで、その人たちを差し置いて先頭で入場するというのは、厚い信頼の証でもあります。
仮にこのような対応をしなかったとしても、丹羽長秀の忠義が変わることは決してないでしょう。

まとめ

今回は、丹羽長秀の生涯とエピソードをご紹介しました。
織田信長に仕えてからは、戦で功績をあげるだけでなく、政治的手腕も発揮し、柴田勝家と共に「織田家の双璧」と言われます。
織田家と縁戚関係にあり、他家にはない関係性があったことから、単なる主従関係を超えた親しい間柄でもありました。
京都で大規模に行われた馬揃えでは、他の重臣たちを差し置いて先頭で入場したことは、厚い信頼の証になります。

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