賤ケ岳の七本槍の一人として数えられた片桐且元は、豊臣家の直参家臣であり豊臣姓を許されていました。
豊臣家を守るために尽力し、敵となったはずの家康からも惜しまれたという非常に優秀な人物だったのです。
片桐且元はどのように生きたのか、且元の生涯を紹介します。
片桐且元の生涯
近江国の浅井氏の配下の片桐直貞の元に、片桐且元は1556年に長男として誕生しました。
片桐氏のルーツは、元々伊那在郷の鎌倉御家人である片切氏で、本流と別れた支流が片桐氏となったものです。
織田信長が浅井長政を攻めたことで1573年に小谷城は陥落し、浅井長政は自害します。
落城した小谷城の代わりに長浜城が築城され、羽柴秀吉が領主として治めることになりました。
且元は、1574年から1579年の間に石田正澄・三成兄弟とともに、秀吉に仕官しました。
毛利輝元に対しての中国攻めにも従軍していたとみられ、1583年の柴田勝家と家康との間に起こった賤ケ岳の戦いでは一番槍を務め、賤ケ岳の七本槍の一人として名をあげ、秀吉は3千石を与えました。
1586年に従五位下・市正に任官されて豊臣姓を下賜されます。
同年に方広寺の大仏殿の建設で佐治奉行を務め、以降も奉行として活躍し兵站にもかかわっていました。
また、秀吉の支配領域が増えていったので、丹波国や伊予国、大和国などで浅野長政や福島正則、小堀正次らと一緒に検地奉行に携わります。
1587年の九州征伐では、軍船の調達を担当しました。
1590年に小田原征伐が起こった時は、城の接収を確認して鶴岡八幡宮の所領安堵や修復造営の手配、検地などを行っています。
また、奥州仕置では検地だけではなく、浅利事件を調査して当事者を上洛させ、長束正家に裁定を委ねました。
朝鮮出兵の際は、弟とともに出征し、街道整備などを行っていましたが、備前国からの軍勢が延滞したため船の調達をするよう指示されています。
秀吉からの支持を取り次いで、戦にも参戦しています。
1593年に帰国して、翌年に伏見城の普請を分担して行います。
1595年には、播磨国内などで5800石を加増されて計1万石になりました。
1596年の慶長伏見地震からは、復興事業に関連した大坂の都市改造計画に携わっていたと思われます。
1599年に豊臣秀頼が伏見城から大坂城へと遷った際、家康は自邸がないため伏見城までの間の2泊、且元の屋敷に泊めてもらいます。
以降も、2人の間では連絡を取り合っていました。
大阪城の勤番体制も見直されて、且元の権利も強くなります。
また、1600年には且元は大阪城の庶務監督のような立場になったのですが、同時に御奥の警護役にも任じられました。
関ヶ原の戦いでは西軍に与して、大津城の戦いでは家臣を派遣していますが、東軍が勝利した後は長女を人質として家康の元に差し出して、豊臣と徳川の調整に奔走します。
1601年には、1万8千石を加増されて計2万8千石の小名となりました。
且元は、小出秀政とともに豊臣宗家の家老に取り立てられ、弟にも領土と城が与えられています。
秀頼の代行として家康の政治を承認して協力する、大坂総奉行という立場になりました。
1614年に、且元が大坂に戻ると家康との内通を疑われ、暗殺計画があるといわれるようになったことで、且元は屋敷にこもりました。
秀頼や淀殿が武装を解除するよう命じても聞き入れなかったため、且元は執政の任を解かれます。
しかし、且元の罷免が家康の逆鱗に触れ、大坂冬の陣が起こります。
且元は家康側に参戦して、砲術方数十人を率いていました。
1615年に隠居を願い出たものの聞き入れられず、咳病を患って悪化したことで5月に60歳で死亡しています。
片桐且元のエピソード
特に内政面での活躍が目立つ武将である片桐且元ですが、賤ケ岳の七本槍の一人であるように武功を挙げていないというわけではありません。
特徴的なエピソードは何があるか、紹介します。
且元は、1586年に家康の命で摂津山下城主の塩川長満を攻撃するよう、堀尾吉晴や池田輝政とともに秀吉から命じられます。
光秀に味方して逃亡した能勢頼次の領地が長満のものになっていたのを秀吉が頼次に戻すよう命じ、頼次が留守のうちに長満が奪おうと攻撃したのが、原因です。
ただし、塩川氏が取り潰された原因は御家騒動であるという説もあります。
また、頼次は秀吉の死後家康に取り立てられ、関ヶ原の戦いの後に3千石で再興となり、長満の子の頼面が領内に攻め込んだところを撃退して加増されています。
且元への評価は様々で、中には裏切り者としての批判もあります。
無二の忠臣を装って家康に通じていた、狡猾な性質で密約を結んでいたなど、様々です。
暗殺を恐れたが故ともいえますが、最後まで忠義を尽くしたとは言いづらいでしょう。
まとめ
片桐且元は、浅井長政に仕えていたものの浅井氏が滅ぼされたことで、秀吉の元に仕官し、賤ケ岳の戦いで一番槍の功績を認められて賤ケ岳の七本槍の一人に数えられるなどの武勲を挙げました。
しかし、特に活躍したのが内政面で、奉行として様々な活躍を残し、戦の際の兵站などにも重宝されていました。
最後は豊臣秀頼の元を去って家康の元に下りましたが、すれ違いがなければ最後まで忠義を尽くしたでしょう。