武田軍と言えば、戦国最強と呼ばれる騎馬隊を有し、上杉謙信と並んで戦国最強と言われる武田信玄に率いられる勇猛果敢で知られる軍です。
その武田軍の中でも、最強と呼ばれているのが山県昌景です。
この武将は、どのような生涯を過ごし、どんな活躍をしていたのでしょうか?
山県昌景について、解説します。
山県昌景の生涯
山県昌景は、生年が定かではないのですが、1512年もしくは1529年と言われています。
武田家の譜代家老である飯富虎昌の弟、もしくは甥と言われています。
昌景は、最初に武田信玄の近侍として仕えていて、後に使番となっています。
当時は飯富源四郎という名前で、初陣は信濃侵攻の際の伊那攻めとされています。
神之峰城攻めの際は一番乗りの功名を立てたとされ、その功績により1552年に騎馬150騎の侍大将として抜擢されており、その後、向かうところ敵なしとも言われるほどの活躍をしています。
1563年に三郎兵衛尉と名乗り、譜代家老衆に列せられ300騎を預かる対象となりました。
1565年に武田信玄の嫡男である義信と傅役の虎昌が謀反を起こしたのですが、その際は昌景が血族である虎昌も関わっていることを承知で、信玄に訴えたと言われています。
その功績として、昌景は虎昌の赤備え部隊を引き継ぎ、飯富の姓から断絶していた山県氏の名跡を与えられ、山県昌景へと改名しました。
それからは、箕輪城攻略戦や駿河侵攻など様々な戦いに参加したとされています。
しかし、文書上で確認されるのは信玄の側近として、諸役免許や参陣命令、寺社支配など武田氏朱印状奏者としての活動が確認されており、遠方国衆や信濃国衆、甲斐武田家臣などの取次を務め1569年には駿河江尻城代に任じられています。
1571年の大規模な遠江・三河振興では、奥三河の国衆を服属させて抵抗した菅沼定盈に対しては居城である大野田城を押しつぶして退散させ、さらに吉田城を攻囲したとされています。
そして1573年4月に信玄が死去した際は、重鎮筆頭として嫡子の勝頼を補佐することになったのですが、折り合いが悪く疎まれていたようです。
同年8月には、三河長篠城への後詰の指揮を命じられています。
翌年の東美濃侵攻における明知城をめぐる戦いでは、救援に来た織田信長の3万に対して山県は6000の別動隊を任され、山岳地帯の地形を利用して撃退することに成功しました。
退却する信長軍を4里退かせ、信長の周囲の16騎のうち9騎を打ち取り7騎が逃げ出し、信長を追い詰めたとされています。
そして長篠の戦いでは、織田の鉄砲隊の威力を警戒して他の家臣と共に撤退を進言したものの勝頼と側近が決戦を主張したことでそちらの主張が認められました。
設楽原決戦では武田軍左翼の中核を担い、300騎を率いています。
その戦いの中で、山県勢は徳川軍を襲撃したものの退却し、その退却戦のさなかに昌景は享年47で戦死したと言われています。
その首級は、家臣の志村又左衛門が持ち去ったという描写が残されています。
山県昌景のエピソード
山県昌景は、武田二十四将の中でも筆頭格であり、戦国最強とされる勇猛な武将として知られています。
その勇猛さには、様々なエピソードが残されているのです。
特に有名なのが、山県昌景が率いていた武田軍の「赤備え」です。
これは、甲冑から兜、旗印などを赤一色に統一した部隊です。
真田幸村や井伊直政などの赤備えも有名ですが、元祖と言われるのは山県昌景でした。
この部隊は見た目にもインパクトがありますが、それ以上に確かな実力でその名前を轟かせていたのです。
戦場で赤備えの部隊を見た武将は、震えあがっていたと言われています。
元々は昌景の兄である虎昌が率いていたものの、謀反をもくろんで切腹させられたことで昌景が引き継ぐこととなりました。
騎馬だけで構成された赤揃えは、その後も確かな強さで敵に恐怖を与える舞台となっていったのです。
また、山県昌景はかなり身長が低かったと言われていて、当時は成人男性の平均が160センチほどだった中で130~140センチほどしかなかったと言われています。
しかし、その戦力は確かで、戦場で会った敵兵からは「小男が出た」と恐れられていました。
そんな昌景の最後は、長篠の戦です。
織田・徳川連合軍との戦いで、鉄砲隊の威力を知った昌景は、他の重臣と共に主君である武田勝頼に撤退を進言したのですが、決戦を命じられ討ち死に覚悟で戦いに挑みます。
先遣隊を任された昌景は策を講じて一進一退を繰り返しながら抵抗していましたが、鉄砲隊には抵抗できず死を覚悟し、銃弾が飛び交う中を突撃し、刀を振りかざしながら全身に銃弾を浴びて絶命したのです。
その際は、命が尽きてからも落馬せず、采配を口にくわえたまま絶命したと言われています。
壮絶な死にざまに、死して尚最強と思わせる武将となりました。
まとめ
戦国武将で最強と言われる人物は多いのですが、その中でも他のビッグネームを押しのけて上位に入るのが山県昌景です。
また、率いていた赤備えは死後、徳川家康の下で新たにその名前を与えられ、武田の旧家臣は徳川の計らいに深く感謝したと言われています。
最後は主君の命で散ってしまうことになったものの、しっかりと策を練ることができれば織田軍にも負けなかったのではないかと思わせる人物です。