武田氏から離反した「穴山梅雪」

歴史

穴山梅雪は、武田氏に仕えていた武将で武田二十四将に数えられています。

しかしながら、穴山梅雪は主君を裏切ったことで、そのイメージが強く残っています。

どうして、主君を裏切る道を選んだのでしょうか?

今回は、穴山梅雪の生涯とエピソードから、その人物像について迫りたいと思います。

穴山梅雪の生涯

穴山氏は甲斐武田氏の一門に数えられ、武田姓を名乗ることが許された一族でもあります。

特に父の穴山信友や穴山梅雪は、武田宗家と婚姻関係を結ぶなど親族意識が高かったことで、密接な繋がりがあったことが分かっています。

そのような事情を踏まえた上で、生涯を見てみましょう。

穴山梅雪は、1541年に穴山信友の嫡男として生まれました。

幼名は勝千代ですが、後に彦六郎、左金吾と変化し、信君になります。

梅雪とは、出家後に「梅雪斎不白」と名乗ったため呼ばれるようになりました。

1553年には武田宗家への人質になっており、1558年には父が出家した関係で、家督交代がなされたことが記録に残っています。

その後、1562年から1566年にかけて今川氏真に対する家臣たちの反乱が起こった際は、自身の家臣を通じて、今川家の情報を主君である武田信玄に報告していました。

1568年の武田軍の駿河侵攻時には今川家への計略や取次を担当しています。

戦の表舞台で活躍するより、裏方で今川家との対応での活躍が目立った人物だと言えます。

ところが武田信玄亡き後、武田勝頼の時代になると武田氏との関係が揺らぎます。

1575年の長篠の戦いで武田勝頼と見解が相違すると、戦が起こっても撤退することが多くなり、活躍も乏しくなっていきます。

この頃から両者は不仲になっていったのでないかと考えられており、織田・徳川と内通を進めていきました。

1579年頃には息子に家督を譲り、出家していたそうです。

1582年に織田軍の侵攻を受けた際は、内通していた影響ですぐに降伏し、武田家が滅亡した後も織田家の家臣としての地位を確立しました。

しかし、本能寺の変で織田信長が亡くなると、出世し、安定していた状況が一変します。

当時堺に滞在していた穴山梅雪は徳川家康と共に脱出し、甲斐国への帰国を目指します。

その道中、郷民一揆の襲撃を受けたという悲劇的な最期を迎え、40歳で生涯を閉じました。

穴山梅雪のエピソード

武田氏と共にあった穴山梅雪、穴山家ですが、裏切った理由は単なる武田勝頼との不仲だけではありません。

もう一つ考えられる理由に、息子の婚姻の約束が破棄されてしまったことが挙げられます。

元々武田勝頼は、息女を穴山梅雪の嫡男に嫁がせる予定だったのですが、その相手を従弟の武田信豊に変更したのです。

この出来事を理解するには、武田氏と穴山氏の関係を思い出す必要があります。

両家の関係性は、婚姻関係に基づくものであり、他の武将のような主君と家臣の関係と違った流れがあります。

そして、武田勝頼と自身の息子の出生を比較すると、武田氏の跡取りに相応しい立ち位置であったのは穴山梅雪の息子でした。

なぜなら、父穴山梅雪は武田氏の分家であり、母は武田信玄の側室の娘で、武田氏の影響が強くあると考えたからです。

一方で武田勝頼は、武田信玄の側室であった母の諏訪氏を継ぐのでないかとされていたため、跡取りと考えられていなかったのです。

その人物が武田氏に強い影響力のある息子でなく、自分の従弟との結婚に変更したとなれば、黙っていられません。

不仲に加え、この出来事があったことで、内通し武田家から離れることを決意したそうです。

とはいえ、見方を変えると穴山梅雪の行動は裏切りでないと考えることもできます。

婚姻関係で成立していた関係性を断ち切ってしまったのは、武田勝頼です。

そうなると条件が合わなくなるため、同盟関係を解消してしまうのは言うまでもありません。

穴山氏が配下からいなくなってしまった後、武田氏は滅亡への道を進んでいきます。

元々穴山氏は駿河を守っていたため、そこが不在になると徳川軍や後北条氏が甲斐に攻めやすくなってしまいます。

また、穴山氏がいなくなったことにより、家臣たちの意識も下がってしまい、武田氏から離れていく家臣もいました。

武田氏滅亡のきっかけを作った人物だと言うならば、それは事実に違いありません。

どのような状況でも、武田氏の存続に欠かせない存在だと認識できなかった、武田勝頼にも落ち度があります。

ここで、穴山梅雪の最期を因果応報だと捉える人もいるでしょう。

しかし、離反した経緯を知ると、単なる裏切りで悲劇的な最期を迎えたと言ってしまうのは違うと思いませんか?

家の存続を考えた時、良い方向にしたいと、家督を継いだ者なら誰しも考えるはずです。

存続の確率を高めたと考えると、少しの物事でも命取りになってしまう戦国の世を上手く生き抜いたということもできるでしょう。

まとめ

今回は、穴山梅雪の生涯とエピソードをご紹介しました。

生涯やエピソードを通して穴山梅雪を知ると、武田氏との確執が原因で見限ったと考えることもできます。

単なる裏切りというよりは、これまでの武田氏、穴山氏の関係性が崩れたことによる離反だと言えます。

因果応報とも言える最期を迎えますが、家の存続を第一に考えた選択の結果、武田氏の滅亡時に共倒れにならず功を奏したのです。

タイトルとURLをコピーしました