豊臣秀吉には、異父弟である羽柴秀長がいました。
羽柴秀長は、豊臣秀吉が最も信頼できる人物として、天下統一に向け共に行動していきます。
豊臣秀吉が行動した裏で、羽柴秀長はどのような行動をしていたのでしょうか?
今回は、羽柴秀長の生涯とエピソードをご紹介します。
羽柴秀長の生涯
羽柴秀長は、尾張国愛知郡中村で竹阿弥と仲の間に生まれました。
仲の再婚相手の子どもとされており、豊臣秀吉が幼少時に家を飛び出してしまったため、面識は少なかったのでないかと考えられています。
しかし、生粋の知恵者であった羽柴秀長は、豊臣秀吉の戦闘作戦に必ず補佐として参加していたため、すでに厚い信頼関係が築かれていたのでしょう。
長浜城の城代を務めたり、長島一向一揆討伐に豊臣秀吉の代理人として出陣したりしたことからも、信頼されていたことが分かります。
1575年に羽柴の名字が与えられると、1577年には中国攻めにおける山陰道、但馬国の平定の士気を委ねられ、豊臣秀吉陣営の最重要人物に成長を果たします。
本能寺の変後には、豊臣秀吉の「中国大返し」に従い、山崎の戦いに羽柴秀長も参戦します。
清州会議から柴田勝家と対立し、賤ヶ岳の戦いに参戦、1584年には徳川家康と小牧・長久手の戦いで、織田信雄の監視役にあたりました。
1585年の四国攻めでは、病気で出陣できない豊臣秀吉に代わり、羽柴秀長が総大将として指揮を執り侵攻を進めました。
この頃に豊臣の本姓が与えられ、従二位、大納言の官位に栄進したことから、羽柴秀長は「大和大納言」と称されるようになります。
このように、豊臣秀吉が成功を収めていく裏には必ず羽柴秀長がおり、戦、政治面の両方とも良い方向に導いていったのです。
しかし、羽柴秀長は1586年頃から体調が崩れやすくなり、何度も湯治に訪れるようになります。
体調面で不安を抱えた状態ですが、1587年の九州平定では日向方面の総大将として出陣し、従二位権大納言に叙任されるほどの功績を残しました。
ですが、1590年頃から病気が悪化したため、小田原征伐には参加せず、1591年に郡山城で亡くなりました。
享年52歳でした。
羽柴秀長のエピソード
豊臣秀吉が元々農民だったように、羽柴秀長も農民として生活していました。
最終的に一部将として活躍する羽柴秀長ですが、そもそも武将になりたいと思ってはいませんでした。
農民としての生活に満足しており、本人の夢も庄屋や名主を補佐する役人である村年寄りになることが夢だったそうです。
そのため、1度豊臣秀吉の誘いを断っています。
ですが、豊臣秀吉も簡単に引きませんでした。
頭が良かったため、どうしても自分のところにいてほしいと思ったのでしょう。
結局は豊臣秀吉の熱弁に折れ、家来になることを決めたのです。
そして、豊臣秀吉の読みは当たります。
羽柴秀長が統治していた紀州・大和・河内地方は、寺社勢力が強く統治が難しいことで有名だったのですが、問題を解決し上手く治めることに成功します。
仮に農民として生活していても、村の中で頼られる存在になっていたことでしょう。
豊臣秀吉に誘われたのは、もしかすると必然だったのかもしれません。
そんな羽柴秀長の優秀さは、政治面だけではありません。
自分より強い足軽が暴れた際に、気迫で黙らせたというエピソードがあります。
豊臣秀吉の代わりに組頭を務めるようになってから、足軽同士が喧嘩した時のことです。
羽柴秀長が仲裁に入った際、喧嘩の勝者が大声で喚き騒いだので、自分の刀を抜いて「斬れるものならこの刀で斬ってみろ」と言ったのです。
先述した通り、羽柴秀長は武士ではありません。
足軽同士の喧嘩であっても、自分より強い相手に立ち向かっていくのには勇気がいりますし、恐怖心もあったはずです。
それでも立ち向かった羽柴秀長は、勇敢な人物だったのです。
この勇敢さも豊臣秀吉は評価していたため、重要な場面において羽柴秀長を頼ったのでしょう。
さらに、信頼を寄せていたのは豊臣秀吉だけではありません。
実は、豊臣秀吉の養嗣子である豊臣秀次と仲が良かったのです。
豊臣秀次は、嫡子がいなかった豊臣秀吉の後継者となりましたが、謀反を企てたり、素行に問題があったりと悪い評判の多い人物でした。
ですが、羽柴秀長は豊臣秀次を見放しませんでした。
戦で失敗した時は、汚名返上ができるようにサポートしたのです。
また病気になった時は、病気回復の祈願のために神社にお参りにいったそうです。
周囲から良く思われていなかった豊臣秀次も、羽柴秀長との関わりに救われていたことでしょう。
このように寛仁大度だった羽柴秀長に救われた者は多く、何かあった時に豊臣秀吉へのとりなしを頼まれていたことがあったそうです。
豊臣秀吉の政治は、羽柴秀長がいたからこそ成り立っていたと言っても過言ではありません。
羽柴秀長が亡くなった時、多くの人が悲しみ、残念がったことでしょう。
まとめ
今回は、羽柴秀長の生涯とエピソードをご紹介しました。
元々豊臣秀吉とは面識のなかった羽柴秀長ですが、家来になることを了承した後、信頼できる人物として共に行動していきます。
戦、政治の両面において能力を発揮し、豊臣秀吉だけでなく、多くの人から慕われるようになります。
統治が困難な地域でも成功を収めましたから、一農民にしておくにはもったいない人物だったのです。