豊臣秀吉と織田信長の出会いを語る上で、仲の存在は欠かせません。
なぜなら、織田家に仕えていた男性と結婚したからです。
織田家との繋がりは、仲による縁だと言っても過言ではありません。
また、豊臣秀吉の活躍により、生活が一変した人物でもあります。
今回は、仲の生涯とエピソードをご紹介します。
仲の生涯
仲は、尾張国愛知郡御器所村で生まれたとされており、織田家の足軽または雇い兵とされていた木下弥右衛門のもとへ嫁ぎます。
木下弥右衛門との間に日秀と豊臣秀吉を儲けますが、夫とは死別してしまいます。
その後、織田家に仕えていた竹阿弥と再婚し、羽柴秀長と旭(朝日姫)を儲けました。
子どもに恵まれ生活していましたが、竹阿弥にも先立てされてしまい、それからは豊臣秀吉のもとで生活することとなりました。
豊臣秀吉が長浜城主になると、仲は正室の寧々と共に暮らすようになり、親子のような関係を築いていたそうです。
本能寺の変が起こった際には、寧々と共に伊吹山の麓にある大吉寺に逃れ、明智光秀の残党による襲撃を回避しました。
そして豊臣秀吉が関白に任官した際に、仲は従一位に叙され、「大政所」の号を与えられます。
異例の高位を与えられた背景には、関白となった豊臣秀吉の母であることが関係しているとされています。
さらに大政所は、関白の母に対し、天皇が贈る尊敬を込めた呼称であるため、今までの生活が劇的に変わることとなりました。
しかしながら、1587年以降、仲は病気がちになってしまいます。
京都に聚楽第が完成した時、豊臣秀吉と共に居を移しましたが、しばらくしてから仲は大坂に戻りました。
1590年に旭が亡くなり、仲の病も重くなると、自分の墓を準備してほしいと願い、豊臣秀吉はその願いを叶えるため行動します。
一時的に体調が良くなるも、1592年に再度悪化し、仲は聚楽第にて亡くなりました。
享年77歳でした。
危篤であると報告を受け、肥前国名護屋にいた豊臣秀吉は急いで大坂に戻ってきましたが、悔しくも間に合いませんでした。
亡くなった報告を聞いた時、卒倒してしまったくらいですから、とても大切に想われていたのです。
仲のエピソード
仲は、徳川家康のもとへ人質として送られたことがあります。
それは、本能寺の変後、豊臣秀吉が徳川家康を抱き込もうと計画していた時です。
当初は、旭を正室として嫁がせることで、徳川家康が屈すると考えていたのですが、一向にその気配を見せませんでした。
物事が思うように進まなかった豊臣秀吉は、次の作戦として仲を送り込んだのです。
あくまでも見舞いという名目で送り込みましたが、これにはさすがの徳川家康も参ったそうです。
人質として自分の親族を2人も送り込んだのですから、従属せざるを得ないと考えたのです。
人質として他家に行くことは、命の危険を伴います。
当然、両家の関係が良好であれば、何の問題も起こりません。
政略結婚で嫁いだ場合も同様です。
ですが、関係が悪化した時は、命を落としてしまう可能性があります。
そのようなリスクの高い行動を、2人も行っていたのです。
人質の意味をよく理解している徳川家康なら、どれほどの思いで来ているのか、想像するのは容易だったでしょう。
だからこそ、従属する決断をしたのです。
同時に、仲も命の危険を伴うことを理解した上で、人質として送られました。
豊臣秀吉が出世した段階で、このような手段が取られることも考えていたかもしれません。
徳川家康が従属を決断したことで、人質生活は1か月ほどで無事に終了しました。
しかし、その期間の心労は計り知れません。
もしかすると仲も、様々な面において気を遣っていたのかもしれません。
元々体調を崩しやすかった仲は、この1件以降病気がちになってしまい、体調の変化を繰り返すようになります。
そんな仲に追い打ちをかけるように、1590年に旭が先立ってしまいます。
娘が先立ってしまったことで、気持ちも落ち込んだのでしょう。
寂しさもあってか、豊臣秀吉により体調不良を訴えるようになり、前述のように墓を用意するように伝えます。
豊臣秀吉も仲の体調不良に対し、その都度心配していたようで、墓の用意に関してもできるだけ希望を叶えたいという親孝行の表れだったのでしょう。
文禄・慶長の役が始まった際も、豊臣秀吉の身を案じた仲が海を渡るのを辞めるよう懇願したところ、1年の延期が決まりました
仲の懇願とあっては、豊臣秀吉も無下にすることができなかったのでしょう。
この頃、信頼していた羽柴秀長が亡くなっていましたから、これまで以上に豊臣秀吉は母の思いを大切にしたのです。
豊臣秀吉が天下統一を果たせたのは、仲が人質としての役目を果たしたからです。
体調面に不安を抱えながらの晩年でしたが、息子のことを心配する思いは今と変わらないでしょう。
まとめ
今回は、仲の生涯とエピソードをご紹介しました。
仲は2度夫に先立たれてしまいますが、出世する豊臣秀吉のもとで暮らすうちに、自分の立場が大きく変わることになります。
徳川家康のもとへ人質として送られたこともあり、豊臣秀吉が天下統一するための協力を惜しみませんでした。
病気がちになってしまったのは人質生活における負担が影響したかもしれませんが、天下統一に繋がったことに違いありません。