山部赤人の著名な和歌は、万葉集で見ることができます。
ところで山部赤人は、どのような人物だったのでしょうか?
そもそも、どのような経緯で多くの和歌を詠んでいたのでしょうか?
今回は、奈良時代に活躍した歌人、山部赤人の生涯とエピソードをご紹介します。
山部赤人の生涯
山部赤人の生年は不詳ですが、官位は外従六位下、上総少目でした。
名前については、「山部明人」と表記されることもあります。
684年に天武天皇が新たに制定した八色の姓により、大和政権の姓であった山部「連」(むらじ)から山部「宿禰」(すくね)への改姓が行われました。
改姓については、万葉集の前書きである詞書から確認できます。
宿禰を賜ってはいますが、正史において名前の記載がないことから、下級官人だったのでないかと考えられています。
しかし聖武天皇の時代になると、宮廷歌人だったのでないかとも考えられています。
その根拠には、天皇の外出に随行した際の天皇を賛美する和歌が多いこと、神亀・天平の時代に和歌作品が多く残されていることが挙げられます。
また、和歌は諸国を旅して作られたものでないかとも考えられており、実際に山部赤人がどこへ足を運んだのかが議論されています。
例えば、有名な短歌の「田子の浦ゆうち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」の「田子の浦ゆ」が挙げられます。
富士を詠んだ短歌ですが、富士市の田子の浦や蒲原、そもそも足を運んでおらず都で想像して詠んだのでないかと推測されています。
旅した場所を推測してみると、面白いでしょう。
山部赤人の和歌の特徴は、自然の美しさを読んだ叙景歌にあります。
一説によると、感覚的に読んだのでなく、計算された形で表現されているのでないかとされています。
一見すると見たもの、感じたものを表現するのは簡単なように思えますが、計算された作品だと知ると和歌の見方が大きく変わるでしょう。
山部赤人のエピソード
山部赤人の死没についても不明ですが、墓と伝えられている場所が2か所ほどあります。
1つは奈良県宇陀市の額井岳の麓にあり、もう1つは千葉県東金市に赤人塚としてあります。
千葉県東金市の赤人塚には、ある伝説があります。
それは、江戸時代初期に赤人の塚の中から木像が1体掘り出されたことから始まります。
村人たちはそれを閻魔様だと思い込み、閻魔堂に安置し、後に法光寺に移しました。
結局、掘り出された木像が赤人像だったのかは最後まで不明でしたが、伝承自体が古くからあったことが分かる伝説になります。
また、千葉県東金市には有名な歌人の西行も訪ねていたようで、山部赤人ゆかりの地として昔の人にとっても有名な場所だったのです。
時代が違っても、著名な歌人であるということの証明になります。
ところで、山部赤人は柿本人麻呂と共に歌聖と呼ばれていますが、お互いの評価はどうだったのでしょうか?
本人同士の評価は不明ですが、紀貫之は『古今和歌集』において柿本人麻呂より山部赤人を評価しています。
しかしながら、記載のある一文だけが根拠となるとは言えず、全文を通して評価されているのは柿本人麻呂になるそうです。
となると、歌聖としてそれぞれの魅力があると考えるのが妥当でしょう。
もちろん、両者の得意とする短歌の描写は異なりますので、比較すること自体が間違っているのかもしれません。
そんな山部赤人の代表作は、先述した「田子の浦ゆ」の短歌になります。
元々単体としての作品でなく、「天地の」と詠んだ長歌に添えられた作品で、長歌と短歌が引き立てあって成立しているのです。
そしてこの短歌では、富士山の美しさや見た時の感動を表現していますが、ここで伝えたいのはそれだけではありません。
短歌には、美しさや感動を後世に伝えたいという意味が込められているのです。
富士山が立派で、日本を代表する山というのは、現代人でも知っています。
ですが、過去の様子を知るには、短歌をはじめとする記録でしか分かりません。
そうなると、山部赤人の詠んだ短歌から、昔から変わらぬ富士山の素晴らしさを知ることができるのは奇跡的なことになります。
後世に伝えたいという山部赤人の願いは、叶っているのです。
もし短歌で表現したのが別のものだったら、私たちは昔の富士山の美しさを知ることができたでしょうか。
謎の多い歌人ですが、昔の日本を知ることのできる手掛かりになっているのは間違いありません。
また、山部赤人は出生地や没した地がどこなのか、それすら不明です。
そのため、作品を通して、現在でも該当する場所を探し議論しているのです。
足跡を辿っているのは和歌の理解を深めるだけでなく、山部赤人の人生を知るきっかけにもなります。
和歌の詠まれた場所も含めて、推測されている場所は幾つかありますから、山部赤人の足跡を辿ってみてはどうでしょう。
まとめ
今回は、山部赤人の生涯とエピソードをご紹介しました。
山部赤人は様々なことが不明な人物ですが、宮廷歌人として多くの場所を訪ねていったことが分かっています。
叙景歌の表現は計算されているもので、人の心を惹きつけたり、共感しやすかったりするのは現代人でも変わりません。
そのような経緯から、山部赤人は歌聖と呼ばれたのは当然のことでしょう。