戦国時代、織田信長の筆頭家老でありながら突如として追放された悲劇の武将として有名なのが、林秀貞(はやし ひでさだ)です。
信長が幼少の頃から見守り続けた最古参の宿老ですが、一時は信長の弟を擁立して謀反を起こすなどその生涯は織田家の激動の歴史そのものでした。
林秀貞の波乱に満ちた生涯について、解説します。
織田家のために謀反を起こすまで
林秀貞は、現在の愛知県にあたる尾張国の国人領主の家系に生まれ、織田信長の父の織田信秀に早くから仕えて実直な人柄と高い実務能力から厚い信頼を得た人物です。
信長が誕生してわずか数歳で那古野城の城主になると、信秀は信長を支える「四家老」を任命し林秀貞は四家老の筆頭に選ばれました。
四家老には他にも平手政秀などが名を連ねていましたが、秀貞は名実ともに信長の傅役兼筆頭家老としての重責を担うことになったのです。
青年期の信長は、奇抜な格好をして既存の礼儀を無視する「うつけ者」として周囲の眉をひそめさせていました。
規律や格式を重んじる宿老の秀貞にとって、信長の破天荒な振る舞いは理解しがたいものであり眉をひそめていたのです。
秀貞は次第に深い危機感を抱くようになり、信長に織田家の未来を任せるわけにはいかないと考えるようになっていました。
1551年に織田信秀が死去すると信長と秀貞の溝は決定的なものとなり、秀貞は品行方正で評判の高かった信長の同母弟の織田信行に期待を寄せるようになったのです。
そして1556年にはついに、柴田勝家らとともに信長を排斥するための兵を挙げて稲生の戦いと呼ばれる戦を起こしました。
しかし、結果は信長の鮮やかな戦術の前に秀貞・勝家軍は惨敗して信行側についた武将たちが次々と処刑されてしまったのです。
しかし信長は生母である土田御前の調停を受けてかあるいは今後の国益を考えてか、驚くべきことに首謀者である秀貞と柴田勝家の罪を許し再び家臣として召し抱えました。
信長の家臣に復帰してから
秀貞は命を救われてからは信長に対して忠誠を誓い、織田家の筆頭家老として全力を尽くすようになったのです。
秀貞の真骨頂は、戦場での武功よりも行政や外交といった内政の手腕にあり、優れた教養を活かして京都の公家や寺社との複雑な政治交渉を一手に引き受けました。
また、信長が尾張を統一して美濃、さらには京都へと進出していく過程で、政権の最高顧問として重要な儀式や公式行事の最高責任者を務めていたのです。
信長が家督を嫡男の信忠に譲った後は、信忠の最高補佐役として新体制の安定化に尽力しました。
織田家臣団の席次においては、どれほど柴田勝家や明智光秀、羽柴秀吉らが戦功を挙げようとも常に林秀貞が筆頭で、信長政権の象徴的な重鎮であり続けたのです。
しかし、1580年(天正8年)に信長から突然24年前の稲生の戦いでの謀反の罪を突きつけられ、即座に織田家から追放されてしまったのです。
すでに秀貞は68歳前後の高齢であり長年織田家に尽くしてきた功労者だったため、誰も予想できない展開となりました。
非情な処分が行われた理由として推測されているのがまずは能力主義への完全移行で、信長は領地の拡大を進めつつ成果を出せない古い世代の整理を進めていたのです。
同時期に佐久間信盛も追放されていることもあって、古い世代の追放という考え方には信ぴょう性があると考えられています。
また、若き信忠の政権へ移行するにあたりって発言力が大きすぎる最古参の宿老が邪魔になったという説もあるのです。
追放された秀貞は、名を林意次(おきつぐ)と改めて安芸国の毛利氏などを頼って落ち延びたとされています。
そして追放からわずか1〜2年後の1580年、もしくは1582年に失意のうちに病死したと伝えられているのです。
まとめ
林秀貞は織田信秀、信長、信忠と3代にわたって仕えていたため忠臣と思われるかもしれませんが、実は信秀が死去した際に一度謀反を起こし、再び帰順しています。
筆頭家老として信長を長年支え続けたものの、信忠に家督を譲ってから謀反の罪を蒸し返されて織田家から追放されてしまったのです。
内政に関しては非常に優秀だったのですが、常に戦果を求め続ける能力主義の前に切り捨てられてしまいました。


