織田信孝の生涯

歴史

織田信孝戦国時代の天下人・織田信長の三男であり、父譲りの聡明さと果敢な武勇を持ちながらも悲劇的な最期を遂げた武将です。
山崎の戦いで父の仇である明智光秀を討つ大功を挙げたものの秀吉と対立して弱冠26歳で自害へと追い込まれたのです。
織田信孝の波乱と無念に満ちた生涯について、解説します。

父・信長のもとで

織田信孝は1558年に織田信長の側室の坂氏を母として、信長の三男として生まれたのです。 実は兄の信雄よりも数日早く生まれたという説がありますが、母の身分が低かったことや信長への報告が遅れたことなどから三男として扱われたと言われています。

幼名は三七と名付けられ、1568年に信長が北伊勢を平定した際に和睦の条件として鈴鹿郡の有力国人領主であった神戸具盛の養子となり、元服して神戸信孝を名乗ったのです。
翌年には五家老の反対派を粛清して実権を握り、形式的な養子にとどまらず織田家の伊勢支配を代行する一軍の将として成長していきます。

成長した信孝は父の天下統一事業において重要な軍事行動に度々従軍し、織田軍の主要な戦線で武功を重ねていったのです。
武才と実直な性格を評価した信長は、1582年5月に信孝を四国征伐の総大将に大抜擢しました。

信孝は信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝や宿老の丹羽長秀らを従え、四国の長宗我部元親を討伐するため数万の軍勢を集結させて出陣の準備を進めたのです。
信孝にとって天下にその名を轟かせる最大の好機が訪れていたのですが、出陣を翌日に控えた1582年6月2日未明に本能寺の変が勃発します。

京都・本能寺において父・信長と兄・信忠が明智光秀の謀反によって討たれ、大坂にいた信孝の軍勢は突然の報に大混乱に陥ったのです。
雑多な混成部隊であったため混乱に乗じて逃亡兵が相次いでしまい、軍は一時崩壊状態となりました。

さらに、信孝の従兄弟にあたる津田信澄に謀反の疑いをかけ、丹羽長秀とともに大坂城で信澄を殺害するという内紛も発生したのです。
体制を立て直した信孝は、中国地方から驚異的なスピードで引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と合流して信孝が総大将という大義名分を掲げ秀吉とともに明智軍を迎え撃ちました。

山崎の戦で光秀を見事に打ち破り、信孝は父の仇を討つという最高の軍功を挙げたのです。

信長の死後

光秀討伐の立役者となった信孝でしたが、織田家の後継者を決める清洲会議で彼の運命は暗転します。 信孝は織田家の筆頭宿老であった柴田勝家から器量を高く評価され、後継者候補に推されていたのです。

しかし、急速に台頭する秀吉は亡き嫡男・信忠の遺児であるわずか3歳の三法師(織田秀信)を擁立します。
さらに次男の織田信雄も秀吉側に就いたため、会議の結果後継者は三法師となって信孝は美濃国領有と三法師の後見役に甘んじることとなったのでした。

秀吉の専横に危機感を募らせた信孝は打倒秀吉の兵を挙げ、秀吉が美濃へ進撃してくると信孝は一度は降伏を余儀なくされ三法師を秀吉に引き渡しました。
1583年春に信孝は再び岐阜城で挙兵しましたが、賤ヶ岳の戦いにおいて信孝についた勝家は敗北し北ノ庄城で自害したのです。

信孝を支えていた滝川一益も降伏して信孝は完全に孤立無援となり、秀吉の命を受けた実の兄・織田信雄の軍勢に岐阜城を包囲されついに開城して降伏します。
1583年5月2日、信孝は信雄からの切腹の要求を拒みきれず享年26で自害へと追い込まれることとなったのです。

辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」という、秀吉への激しい呪詛と怨念に満ちていました。

まとめ

織田信孝は信長の三男として生まれ、神戸具盛の養子となったものの織田家の伊勢支配を代行する将として成長し、信長の軍事行動にも度々従軍していたのです。 武功を重ねたことで信長の信頼を得た信孝は四国征伐の総大将に抜擢されたのですが、出陣前日に本能寺の変が起こり秀吉と共に光秀を破り父の仇を討ちました。 しかし以降は秀吉と対立し、賤ケ岳の戦いでの敗北を経て享年26で自害へと追い込まれたのです。

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