織田信忠の生涯

歴史

織田信忠は戦国時代に天下統一へ突き進んだ織田信長の嫡男であり、織田政権の実質的な二代目だった不世出の将星です。
しかし本能寺の変が勃発した際に二条新御所へと籠もり、わずかな手兵とともに明智光秀の大軍を迎え撃って壮絶な最期を遂げたのです。
時代の激流に消えた織田信忠の生涯について、解説します。

誕生から家督継承まで

織田信忠は1557年に、信長が最も深く愛したとされる側室の生駒吉乃(久庵桂昌大禅定尼)を母として織田信長の長男(一説には次男)として尾張国で生まれたのです。 信長が我が子の顔を見て「奇妙な顔をしておる」といったため、幼名は奇妙丸(きみょうまる)と名付けられたという有名な逸話があります。

幼少期から嫡男として大切に育てられた信忠は、1572年に15歳で元服し勘九郎信重と名乗ったのです。
同年に武田信玄との同盟関係を強化するため信玄の娘である松姫と婚約したものの、同年の暮れに武田軍が織田領へ侵攻したことで婚約は実を結ぶことなく解消されました。

元服後の信忠は父に付き従って浅井・朝倉氏との戦いや長島一向一揆の平定、長篠の戦いなどに従軍し、着実に軍事経験を積んでいったのです。
1575年11月に信長はまだ10代後半の信忠に織田家の家督を譲り、美濃国・尾張国の二国と岐阜城の差配を完全に委ねました。

信長自身は安土城へ移って天下人としての最高権力者の地位に就く一方、実務的な軍事・内政の指揮権を信忠へと移譲したのです。
信忠は織田軍の総大将として前線に立つようになり、1577年の大和国・信貴山城の戦いでは謀反を起こした松永久秀を相手に総大将として従軍しました。

見事な采配を見せた信忠は久秀を自害に追い込み、さらに1578年の播磨神吉城攻めや、荒木村重の謀反にも対応したのです。
近畿地方の主要な平定戦を次々と指揮し、家中において信長の後継者としての圧倒的な実力と信頼を確立していきました。

最大の武功と宿命の最期

信忠の軍事生涯において最大のハイライトとなったのが、1582年2月に始まった甲州征伐です。 信長から東国平定の総大将に任じられた信忠は、美濃・尾張の軍勢を率いて伊那口から甲斐国へと進撃しました。

武田方の防衛線を次々と突破した信忠の進軍スピードは凄まじく、父・信長の本隊が到着するよりも遥か前に武田氏の拠点や主要な城をことごとく陥落させたのでした。
特に仁科盛信が死守する信濃国・高遠城の攻防戦では、激しい抵抗に遭いながらも信忠自らが陣頭に立って柵を破り、城内に突入するほどの猛勇を示して1日で攻略しました。

圧倒的な進撃によって武田軍は完全に瓦解し、名門・武田氏を滅亡へと追い込むことに成功したのです。
戦後、信長は信忠の将才を「天下の差配は信忠に任せ、自分は隠居して悠々自適に暮らしたい」と激賞し、名刀「不動国行」を授けてその功績を称えました。

武田氏を滅ぼして名実ともに天下の二代目としての地位を不動のものとした信忠に、運命の時が訪れたのです。
1582年6月2日未明、中国地方の毛利攻めへ出陣するため京都の妙覚寺に滞在していた信忠のもと信長が滞在する本能寺が明智光秀によって襲撃されたという急報が届きます。

信忠はすぐさま本能寺へ救援に向かおうとしましたが、すでに本能寺が炎上して父が自害したことを知るのです。
信忠は京都所司代・村井貞勝らの進言を受け入れて、防御に適した誠仁親王の御所である二条新御所へと移動しました。

信忠の周囲にはわずか数百名の側近や馬廻しかおらず、一万を超える明智軍に包囲される中で信忠は親王を安全に退去させて残った家臣たちと決死の防戦を展開したのです。
信忠自らも剣を振るって敵を斬り伏せるなど激しく抵抗しましたが、最期は父の後を追うようにして割腹し享年26という若さで輝かしい生涯を閉じました。

まとめ

織田信忠は織田信長の嫡男として生まれ、15歳で元服し3年後には信長から家督を譲られ指揮権を委譲されて織田軍の総大将として前線に立つようになったのです。 信忠は圧倒的な実力で大和国・信貴山城の戦いで松永久秀を自害に追い込み、播磨神吉城攻めや荒木村重の謀反への対応などを経て信長の後継者としての地位を確立しました。 武田氏を滅ぼすという圧倒的な武功も挙げましたが、本能寺の変で圧倒的人数差に敗れ割腹したのです。

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