広島城は、安土桃山時代に毛利輝元が現在の広島県広島市中区に築かれた城です。
太田川河口のデルタ地帯にあり、日本三大平城に数えられる城です。
別称として、鯉城や在間城、当麻城とも呼ばれます。
広島城は、どのような歴史をたどってきたのでしょうか?
広島城の歴史と特徴について、解説します。
広島城の歴史
広島城は、1589年に築城を開始して1590年に完成しました。
築城したのは毛利元就の孫である輝元で、大坂城を参考にした構造であり縄張は聚楽第に範を見本にしたといわれています。
1591年に輝元が入城し、翌年には秀吉が名護屋城に向かう途中で立ち寄り、城内を見学していきます。
石垣が完成したのは1593年で、すべての工事が完了したのは1599年のことで、この頃に広島という名前も付けられたといわれています。
完成した当初は実践的な白構えだったといわれているのですが、当時の城主である毛利輝元は関ヶ原の戦いで厳封され広島を去ってしまい、1600年に福島正則が城主となった際に改築したため、それ以前の城の詳細は不明になっているのです。
福島正則は石工集団の穴太衆を雇い入れて城の整備や城下町づくりを本格的に行い、外郭は整備されて堀が1キロメートル四方もある大きな城となりました。
しかし、城の整備と城下町づくりが大規模だったため、徳川家康が怒ってしまい1609年に謹慎を言い渡されます。
1619年になると、洪水によって被害が生じそれを修復したのですが、幕府はそれを無届での改築と判断し、武家諸法度に反するとして改易となります。
そして、代わりに浅野長晟が入城し、それから明治になるまで12代にわたって浅野氏の居城となります。
明治になり、1871年に廃藩置県があり、広島県が発足して本丸には県庁舎が置かれることとなったのですが、本丸に鎮西鎮台第一分営が置かれて県庁舎は三の丸に移転します。
1873年には三の丸にも兵営が置かれ、県庁舎は国泰寺に移転します。
大日本帝国陸軍施設が立てられる一方で、家事や解体などで江戸時代から残る建物は失われてしまいます。
特に、1874年に起こった本丸・二の丸の火事では、本丸御殿が全焼してしまいます。
1894年には日清戦争が勃発し、城内には広島大本営が設置されます。
また、その年から翌年にかけては、明治天皇が広島に行幸しました。
それに伴って、第7回の帝国議会は広島で招集され、短期間だけ臨時首都となりました。
1926年には、歴史的価値から大本営跡が史跡に指定され、1928年には天守が一般公開されました。
1931年には、天守が国宝保存法に基づいて旧国宝に指定されました。
太平洋戦争末期になると、第二相軍司令部が二葉山麓の東練兵場そばに置かれます。
当時は、まだ江戸時代からの天守や一部の櫓、門などが残っていました。
しかし、アメリカ軍によって原子爆弾が投下され、広島城周辺は軍事施設が多かったため破壊目標となりました。
爆心地は1キロほど離れた場所で、建物は爆風によって一瞬に倒壊し、火災によって焼失してしまいます。
なお、天守は倒壊ではなく自壊しました。
終戦後も、復興が進む中で本丸や二の丸は用途が決まらず放置された状態が続き、草むらとなっていました。
天守は再建が望まれたものの、原爆によって廃墟となった現状を保存するべきと文化財関係者に反対されています。
1951年には広島国体に合わせて木造の仮設天守が作られ、国体後には解体されたものの天守再建の機運につながりました。
そして、1958年には広島復興大博覧会の開催が決まり、広島平和記念資料館の開館とともに目玉として、天守の再建が決定しました。
1957年に着工して、1958年には竣工しました。
そして、1989年から1994年にかけては、二の丸の復元や堀の浄化作業を行い、2006年に日本100名城の73番に選定されています。
広島城の特徴
広島城の築城には、秀吉が大きく関わっています。
1588年に秀吉に招かれて聚楽第や大坂城を訪れた毛利輝元は、近代城郭の重要性を実感したため元々の吉田郡山城ではなく海上交易路を活かすことができる城を立てることにしたのです。
海上交易路として背都内の水運を活かすことができ、大きな城下町を築くことができる海沿いの平野を選んで築城し、そこに拠点を活かすことを決めたのです。
それがなければ、広島城が築かれることはなかったでしょう。
広島城の外壁には、出窓のように突き出している部分があることが下から見るとわかります。
これは、石落としという仕組みです。
広島城は平野に建てられていて、防御力はあまり高くありません。
そのため、敵が攻めてきた時に上からものを落とすためにあるのです。
こういった仕組みは、広島城の特徴的な造りといえるでしょう。
まとめ
広島城は、毛利元就とも関係があり秀吉とも深い関りを持つ、歴史的に重要な城といえます。
また、太平洋戦争末期の原子爆弾の被害も受けていて、その点でも歴史と大いに関係するものです。
原爆投下の際に自壊した天守は、一時期仮で復興されていて、その後に正式な復興が決まりました。
元の天守は失われましたが、その後で改めて作られています。