出世のために主君を変える築城の名手「藤堂高虎」

歴史

藤堂高虎は、戦国時代の武将であり、伊予今治藩主で伊勢津藩の初代藩主となった人物です。
築城三名人の一人にも数えられる築城の名人で、様々な築城の縄張りを担当して層塔式天守を考案しました。
高石垣や石垣の上に多聞櫓を巡らせる技術は当代随一でした。
藤堂高虎はどのような人生を送ったのか、紹介します。

藤堂高虎の生涯

1556年に、近江国の土豪の藤堂虎高の次男として、藤堂高虎が生まれました。
幼名は与吉で、昔から体格が並外れて大きく、乳母の乳だけでは足りず数人から乳をもらっていたといわれています。

13歳の頃には兄よりも体格が大きくなっていたほどで、兄が戦死したため若くから家督を継ぐこととなりました。
最初は浅井長政に仕えていて、1570年の姉川の戦いで初陣を飾り、以降も功績を重ねて長政から感状と脇差を受けています。

しかし、1572年に同僚と勲功を巡って争論となり、相手を切り捨てて逃走します。
浅井氏を1573年に織田信長が滅ぼした際は、浅井氏の旧臣の阿閉貞征に仕えたものの、同僚が指示に従わなかったため殺害して浪人となります。

以降も、浅井氏旧臣の磯野員昌に仕えたものの、佐和山城に信長の甥の信澄が入ると仕えるようになります。
しかし、母衣衆とけんかをしていて、加恩もなかったので長く仕えることはありませんでした。

1576年には羽柴秀吉の弟の秀長に仕え、翌年には竹田城攻めで奇襲を成功させたことで、足軽大将になります。
尾張城攻めでは、加古六郎右衛門とおよそ1時間をかけて戦って、討ち取ったといわれています。

1581年には但馬小代一揆平定に取り掛かるものの、負傷して退却したり落馬の危機に見舞われたりと、苦戦する様子が見られました。
同年、一式修理太夫義直の娘と結婚しました。

賤ケ岳の戦いでは佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝のきっかけとなりました。
1585年には紀州征伐で戦功をあげ、さらに築城を担当して普請奉行に任命されます。
四国攻めでも功績を上げて、度重なる加増によって3百石から1万石の大名となりました。

秀吉が関白となった際は、聚楽第の邸内に徳川家康のための屋敷を建てるよう秀長に命じて、秀長は高虎に任せます。
設計図をもらったものの警備上の不備があったため、高虎は無断で変更しました。

1591年に秀長が死去した際は、甥の羽柴秀保に仕えて代理として文禄の役にも出征しています。
しかし、秀保も1595年に亡くなったため出家したのですが、秀吉に召還されて還俗し、現在の宇和島市を治める大名になります。

1598年に秀吉が亡くなる直前から、高虎は家康に接近して徳川方に加担します。
1600年には会津征伐、河渡川の戦いに参戦し、関ヶ原の戦いでは東軍として早朝から大谷吉継と戦い、以降は山中に転戦して石田三成と戦ったといわれています。

戦後、高虎には今治12万石が加増されて20万石の大名となり、今治城を新たな居城として改装しています。
天守は当時、望楼型天守が主流だったのですが、構造上無理だったため新たに層塔型天守を創建しました。

以降は徳川の重臣として働き、家康には重く用いられて秀忠にも仕えます。
1630年に、江戸において享年74で死去しました。
墓は、上野恩寵公園内の寒松院にあります。

藤堂高虎のエピソード

藤堂高虎は、若いころはもめ事を起こしては主君を変えるような人物でしたが、羽柴秀長に仕えるようになってからは秀吉の存命中豊臣氏に尽くし、客分である徳川家康のための屋敷を作る時は自腹で快適になるよう手を加えています。
藤堂高虎の特徴的なエピソードについて、紹介します。

藤堂高虎は幼少期から体躯が大きく、3歳で餅を5個も6個も食べることも多く、けがをしたとしても痛いといったことがないといわれています。
13歳の頃には兄よりも大きな体だったといわれるほどなので、かなり大きかったのでしょう。

1568年に、小谷の郷に賊が現れたため、虎高と孝則は捕らえに行こうとし、高虎も同行を望んだもののまだ幼いからと断られます。
しかし、高虎は自宅に戻って父の脇差を持って、勝手に賊の住処に向かったそうです。

賊の住処で裏口に隠れて待ち構えていると、父と兄が正面から押し入って賊は裏口から逃げようとしたため、高虎が切り殺して首を持ち帰ったところ、虎高は喜んでいたと伝えられています。

高虎といえば、生涯七度も主君を変えたということが有名です。
当時の考え方では、一生一人の主君に仕えるのが当然だったのですが、実は他にも渡り奉公人というべき主君を変えた人々は京都や大坂に少なからずいたため、珍しいというほどでもありませんでした。

また、高虎は家臣に対して情が厚く、他家に仕官しようと考えている家臣には太刀を与え、士官先が思わしくなければ戻ってきていいと伝えています。
実際に戻った家臣は、元通りの待遇で再士官しました

まとめ

藤堂高虎は、浅井長政に仕えていたものの同僚を切り捨てて逃走、浅井が滅びると元家臣に仕官するもやはり同僚を殺害して逃亡、さらに別の旧臣に仕えた後、織田信澄、羽柴秀長、羽柴秀保、徳川家康と合計7人の主君に仕えました。
士官先で重宝されることが多かったのは、やはり武勲に優れていたことが理由と思われますが、築城名人としても知られています。
自身の才覚を信じて、成功した人物といえるでしょう。

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