戦国武将の中でも、特に織田信長は人気があります。
その信長の敵は多かったのですが、大きな転機となったのは今川義元と戦った桶狭間の戦いです。
しかし、今川家はそれで滅亡したわけではなく、息子の氏真が継いでいます。
今川氏真は愚将か名将かで意見が分かれているのですが、果たしてどのような人物なのでしょうか?
今川氏真とは?
今川氏真は、1538年に今川義元と定恵院との間に嫡子として生まれました。
定恵院は武田信玄の姉なので、氏真にとって武田信玄は叔父となります。
1554年には北条氏康の長女である早川殿と結婚して、甲相駿三国同盟が成立します。
戦国時代においてその血筋はサラブレッドと言えるものでしたが、桶狭間の戦いでその立場は一変します。
父の義元が尾張に侵攻して織田信長に討たれてしまったことで、氏真が今川家を継承することとなったのです。
しかし、桶狭間の戦いでは義元以外にも、多くの重臣や国人が討たれました。
中心人物が失われた今川家では、これまで通り治めることが叶わず体制の変化を余儀なくされたのです。
そして、三河・遠江では今川家の統治に対して不満を抱く人が増え、党首が死亡したことをきっかけとして紛争が起こることもありました。
そこから、今川家離反の動きが広がっていったのです。
義元が対織田戦の陣頭に三河の国人を動員していたため、大きな犠牲も出ていました。
氏真は、三河の寺社や黒人、承認に対して所有権等を許可する安堵状を多数発給することで、動揺を防ごうと試みます。
それでも、西三河は岡崎城に入った松平元康の勢力下にはいってしまいます。
また、氏真が新たな人質を出すよう求めたことで東三河の国人領主の間でも不満が高まり、今川家から離反して松平方につく勢力と、今川方に残る勢力に分かれて抗争が広がっていき、三州錯乱と呼ばれる騒動となりました。
1562年になって元康が信長と清洲同盟を結ぶと、氏真は牛久保城へと出兵して一宮砦を攻撃したものの、後詰として参戦した元康の奮闘によって撃退されます。
そして東三河の拠点だった吉田城が開城し、今川家の勢力は三河から駆逐されてしまいます。
遠江でも離反の動きが広がり、謀反の疑いがあった井伊直親を重臣に誅殺させることもありました。
そして、1564年に飯尾連龍が家康と内通して反旗を翻し、氏真は城を攻めたものの陥落させることができず、逆に攻撃を命じた重臣が戦死してしまいます。
その後、連龍は和議に応じて降ったものの、氏真によって謀殺されます。
城も攻め落としたものの、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
そのうえ、叔父の武田信玄との関係にも陰りが見えてきます。
武田信玄は氏真との間に甲駿同盟を結んでいたのですが、1561年の川中島の戦い以降は外交方針を転換していて、信長の養女の龍勝院を世子の諏訪勝頼の正室に迎え、家康とも同盟を結びます。
1568年に信玄は駿河へと侵攻し、氏真と敵対します。
駿河の有力な国人21人が信玄と通じていたため、氏真は数日で潰走し、駿府も占領されてしまいます。
その後は掛川城へと逃れ、徳川軍に包囲されてしまい籠城戦となったのですが、その状態で半年近く耐えていました。
そして氏真は、家臣の助命を条件として掛川城を開城し、ここで今川家は戦国大名として滅亡したとみられています。
今川氏真のエピソード
今川氏真は、和歌や連歌、蹴鞠など様々な技芸に通じていた、文化人としての一面もあります。
そのため、関連したエピソードもいくつかあるのです。
氏真は、織田信長に今川家伝来の香炉を献上したことがあります。
後に大船用の百端帆を献上した際は、2つ献上した香炉の1つを返還されています。
また、蹴鞠についても注目され、4日後に披露するよう求められました。
見世物にされることに起こるかと思いきや、氏真は快諾して公家と共に蹴鞠を披露します。
こういった処世術が、今川氏真が77歳まで生き続けた理由の1つでしょう。
また、和歌を数多く読んでいたことでも知られていて、現在1,658首が保管されています。
個性的な歌も多く、後水尾天皇線と言われる集外三十六歌仙にも選ばれています。
今川家と言えば、義元が公家文化を大切にしていることでも知られています。
その息子である氏真も、蹴鞠や和歌などを習得していたのです。
更に子どもにも伝えられたことで、江戸幕府でも重用されました。
また、氏真は晩年になってから家康を頼り、たびたび江戸城を訪れていたと言われています。
ただ、その頻度があまりに多く、長話ばかりをしていたために家康が辟易して、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたという記録があります。
まとめ
今川氏真は、後世において愚将という見方もされますが、一方で名将とみる人もいます。
戦では負けることが多かったことから愚将とみられていますが、そもそも与えられたスタートラインが不利すぎて、他の誰でもどうにもならないという見方もあるのです。
その中で徳川幕府でも居場所を確保して子孫が重用され、本人も77歳まで生き続けることができたとなると、実は能力が高かったのではないかともいえるでしょう。