佐久間盛政は織田信長に仕えた柴田勝家の甥にあたる武将で、北陸方面軍の勇将としてその名を轟かせていたのです。
鬼玄藩の異名で広く恐れられていて若くして頭角を現しましたが、賤ヶ岳の戦いで猛進が仇となって破滅に向かったのです。
織田軍最強の一角と謳われ、二十代の若さで散った悲劇の猛将の生涯を解説します。
北陸の勇将
佐久間盛政は1560年に尾張国の武将・佐久間盛次の嫡男として生まれ、母は織田家の重臣である柴田勝家の姉妹でした。 盛政にとって勝家は伯父にあたり、他にも後に徳川家臣として活躍する保科正光に嫁いだ姉や同じく猛将として知られる弟の柴田勝政などがいます。
織田家の名門佐久間一族の一員として生まれた盛政は、幼少期から伯父である柴田勝家の薫陶を受けて武芸百般を叩き込まれたのです。
伯父から教えを受けた武芸百般が、勝家の右腕・先鋒として命を懸けて戦う彼の運命の土台となります。
1570年に、盛政はわずか11歳で越前国の朝倉氏攻めで初陣を飾ったと伝えられているのです。
しかし本格的に歴史の表舞台に登場するのは、伯父・勝家が信長から北陸方面軍の総司令官に任命されてからとなります。
当時、加賀国を中心とした北陸は「百姓の持ちたる国」と呼ばれ、一向一揆が強固な支配体制を築いていて織田軍にとって最悪の激戦地でした。
盛政は勝家率いる北陸軍団の先鋒として常に最前線に立ち、一向一揆や上杉謙信の軍勢と死闘を繰り広げます。
盛政の戦いぶりは常に苛烈で、敵の防衛線を力任せに喰い破る姿から彼の官位である玄藩允と掛け合わせて「鬼玄藩」という畏怖を込めた異名が定着していったのです。
1580年、盛政は柴田軍の主力として加賀一向一揆の総本山であった尾山御坊を攻略して、長年織田家を苦しめ続けた加賀の平定に決定的な功績を挙げました。
信長は盛政の軍功を高く評価し、盛政に加賀半国を与えて尾山御坊を改修した金沢城の初代城主に抜擢したのでした。
当時盛政はわずか21歳で、若くして一城の大名へと登りつめ織田家臣団の次世代を担う旗手としてその将来を嘱望されていました。
その後も上杉景勝の軍勢と戦い、能登や越中への進出を助けるなど北陸における豊臣・徳川以外の勢力を圧倒し続けたのです。
賤ケ岳の戦いでの最期
1582年、本能寺の変によって信長が落命すると織田家内での覇権を巡り、伯父・柴田勝家と羽柴秀吉が激しく対立しました。 1583年に両雄は近江国の賤ヶ岳周辺で激突して賤ヶ岳の戦いが起こり、盛政は柴田軍の先鋒大将として出陣したのです。
戦況が膠着する中、秀吉が美濃国の謀反対応のために大垣城へと向かい本隊を率いて戦線を離脱する大垣大返しという好機が訪れます。
盛政はチャンスを逃さずに秀吉方の最前線基地であった大岩山砦を急襲し、見事に陥落させて秀吉軍を大いに震え上がらせたのでした。
盛政の目論見通りに進んでいたものの、総大将の柴田勝家は秀吉が驚異的な速度で引き返してくることを予見して盛政に「即座に自陣へ撤退せよ」と何度も厳命します。
しかし一勝を挙げたことで盛政は自身の武勇を過信し、「秀吉が戻るまでにもう一つの砦も落とせる」と勝家の命令を無視して前線に留まり続けてしまったのです。
一瞬の驕りが盛政にとって決定的な致命傷となり、秀吉は盛政の予測を遥かに超える速度で賤ヶ岳に急行してきました。
さらに柴田方の同盟者であった前田利家が突如として戦線を離脱したため、前線で孤立した盛政の部隊は秀吉の大軍に完全に包囲されたのです。
盛政の軍は奮戦虚しく壊滅してしまい、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる秀吉子飼いの若き将星たちの猛追を受けました。
盛政は戦場から脱出を試みるも潜伏先で捕らえられ、秀吉は盛政の並外れた武勇を惜しんで「臣下になれば九州に領地を与える」と助命を提案し誘惑したのです。
しかし、盛政は勝家公への義理を理由に拒絶し、生かしておけば必ず秀吉の命を狙うと宣言して速やかに首を刎ねるよう伝え、堂々とした最期に秀吉も感嘆しました。
1583年5月、盛政は京都の六条河原で斬首され24歳(一説には28歳)の若さで激動の生涯を閉じたのです。
戦国屈指の突破力を持ちながらも一瞬の独断がすべてを水泡に帰した盛政の生涯は、勝負の厳しさと滅びの美学を現代に伝えています。
まとめ
佐久間盛政は柴田勝家の甥であり勝家から武芸百般を叩き込まれていて、最前線に立ち続けて活躍を続け、上杉謙信の軍勢や一向一揆と死闘を繰り広げて鬼玄藩と呼ばれたのです。 加賀の平定に決定的な功績をあげ、21歳の頃に信長に金沢城の初代城主に任命されたのですが、信長が落命すると伯父の勝家が秀吉と対立して賤ケ岳の戦いが起こります。 盛政は活躍したものの、勝家の話を聞かず過信して秀吉に敗れ24歳で斬首されたのです。


