横手城の歴史と特徴

歴史

かつて、出羽国平鹿郡横手町、現在の秋田県横手市には横手城という山城がありました。
朝倉城や阿櫻場などの別名もある城で、現在は廃城となっていて城跡には横手公園があり、模擬天守も備えています。
横手城というのは、どのような城だったのでしょうか?
横手城の歴史と、特徴について解説します。

横手城の歴史

横手城の築城年数は明らかではなく、1550年頃や1570年代、あるいは小野寺輝道が1554年に築城したなど諸説あり、築城主は小野寺氏ということだけがはっきりしています。
小野寺氏は横手盆地を支配していた鎌倉時代から続く地頭職で、輝道はその13代です。

戦国時代には、小野寺配下の横手氏、金沢氏、大和田氏が横手城を拠点にして反抗したのですが、鎮圧されました。
その後、小野寺氏は本拠を横手城へと移しました。

城の周囲には、土砂崩れを防止すると共に敵兵がよじ登ろうとすると滑るよう、ニラが植えられていました。
そのことから、韮城とも呼ばれていたのです。

輝道の次代である義道は戦国時代の剛雄として知られた人物で、近隣諸国と絶え間なく争っていました。
特に、北へと進出してきた山形城主の最上義光とは何度も激戦を繰り広げていました。

また、知略には乏しかったと言われ、支配下にあった鮭延秀剛に離反され、由利十二頭の人質だった石沢氏の女が小野寺氏を恨んで自害したことで、領内に大沢合戦と言われる一揆が起こります。

楯岡満茂の謀略にかかり、八柏道為を誅殺し、秋田実季に属していた永井広治に実季への攻撃をそそのかされてその隙に最上義光に所領を奪われたこともあります。
そのようなことがあったため、次第に勢力も減退していき戦いを通じて一部の所領も失っていきました。

1590年には秀吉に謁見し、所領を安堵されています。
しかし、その後仙北一揆が起こったことを咎められて所領の3分の1が没収されました。
没収されたのは雄勝郡で、最上氏の領土とされたものの不満に思った義道は支配を継続しようとしました。

最上義光は、1600年の関ヶ原の合戦の前夜に徳川家康と誼を通じ、石田三成と同盟を結んでいた会津の上杉景勝を討伐氏に向かいます。
この時、家康の命で奥州の諸将は山形城に集まったのですが、義道は義光への反感からそれには応じませんでした。

そのことから、関ヶ原の戦いが終わってから家康に小野寺氏が石田三成に与していると考えられてしまい、1601年に改易されて流罪となり、石見国津和野へと流されてしまいました。

横手城は、1602年に水戸から秋田に移封され、久保田城を本拠として築いた佐竹義宣が支城として、秋田藩の城代が置かれるようになりました。

1620年に一国一城令が出された際は支城が禁止され、久保田藩でも支城は破却されたものの横手城については重要な拠点と考えた義宣が幕府に働きかけ、破却されることはありませんでした。

城代には伊達盛重、宣宗と伊達氏の後で須田盛秀が務め、1672年に佐竹氏一門の戸村義連が入ってからは「十太夫」を称していた戸村家の宗家が代々城主を務めて、明治維新まで続きました。

江戸時代末期に起こった戊辰戦争の際、佐竹氏は東北で孤軍漢軍側に味方します。
陸奥仙台藩と出羽庄内藩の軍勢に攻め込まれた際、横手城には戸村義得が籠城していましたが、1868年に落城しました。

横手城はその後、1871年に廃城となっています。
1879年に、戊辰戦争で戦死した22人の慰霊のために焼け残った城の資材を再利用して、秋田神社を本丸跡に建立しています。

本来、横手城には天守がなかったのですが、1965年には岡崎城をモデルにした郷土資料館と展望台を兼ねた模擬天守が二の丸跡に建設されました。
東北地方では、模擬天守として初見となりました。

横手城の特徴

横手城は、朝倉山に築かれていました。
山を包むように横手川が流れ、背後には奥羽山脈につながる山々があり要害堅固な城だったのです。
城には石垣がなく、土塁造りでした。

現在の横手城は横手公園にとして整備されていて、大手門から本丸跡に至る七曲の坂などはかつての姿を残しています。
二の丸跡には、郷土資料館として三層の模擬天守が築かれています。

天寿最上階には展望台があり、眼下には横手川と横手盆地が広がっていて遠くには名山鳥海山も見渡すことができます。
実際にはなかった天守なので、当時の人も見ることができなかった景色を見ることができるのです。

また、公園の南東部分の一角には、徳川家康の権臣であり宇都宮釣り天井で徳川2代将軍秀忠を暗殺しようとしたという疑いをもたれた本多正純の幽居跡があります。
本多正純は佐竹氏預かりのみとなって、横手状態に預けられた後は三の丸の居館で悲嘆の生活尾を食っていました。

まとめ

かまくらや焼きそばなどで有名な横手にあった横手城は、戦国時代に建てられて戊辰戦争で落城し、廃城となりました。
亡くなった22名のための慰霊碑も建てられていて、戊辰戦争において重要な役割を持った城だということがわかります。
現在は城跡が公園として整備されているため、気軽に訪れることができる市民の憩いの場となっています。
当時はなかった模擬天守も、一見の価値があるでしょう。

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